左もゐたが右もゐた

鴎外のことを、頑冥固陋の保守主義者だと思つてゐる讀者は多いのではないか。確かに「假名遣意見」で國語の保守を主張したが、實は鴎外は皇國史觀をも疑ふ進歩思想の持主でもあつたのである。

鴎外は「かのやうに」で、天皇は神ではないと言つてゐる。天皇は神ではないが神であるかのやうに天皇を敬つていかねば日本が持たないと言つてゐる。天皇を疑つてゐるのである。

だが天皇を疑ふとはどう云ふことかを鴎外は考へてゐた。我々は三代前の御先祖樣ですらわからないのが普通である。皇統と云ふが、天皇の御先祖樣は明かである。皇室は御先祖樣を敬ふ一族である。天皇は日本人の信仰である先祖崇拜の代表者なのである。

天皇を疑つてゐると、先祖を敬ふ氣持ちもなくなる。金錢を越える價値が日本から喪はれる。鴎外はそれを理解しつつ、一方で日本が進歩思想を拒絶できないことも知りつつ、そのディレンマに耐へて「かのやうに」を書いたのである。

──かう云ふ事を書くと左ばかりではない、右が驚く。

だが單純に鴎外は「左翼進歩派」だと言切ることができないのである。鴎外の中には「左」もゐたが「右」もゐた。「興津彌五右衛門の遺書」は殉死禮讚或は殉死肯定の書である。日本の古めかしい封建的なものも、單純に西洋の合理主義で切つて捨てることは出來ない、切つて捨ててはならないと鴎外は考へてゐたのである。鴎外の歴史小説でもつともすぐれてゐるのは「阿部一族」だが、これも同じやうな發想から書かれた小説である。

「あるまいか」と「かのやうに」

Yahoo!掲示板に投稿した記事より

森鴎外の「かのやうに」と「興津彌五右衞門の遺書」は天皇の存在意義を考へるのに參考になります。鴎外は「かのやうに」で、西歐の目と傳統的な日本人の目とで交互に天皇を見てゐます。しかし「興津彌五右衞門の遺書」以降鴎外は日本の消えゆく傳統だけを書くやうになりました。

實はこの「かのやうに」と云ふ小説には二つの側面があります。

秀麿からの手紙を受取つた五條子爵が「〜ではあるまいか」「〜ではあるまいか」と考へますね。

秀麿は秀麿で、「かのやうに」と考へてゐれば危險思想ではないと言ひ譯してゐる。

この親子は二人とも、危險思想を抱いてゐるんです──と云ふよりも、疑問形や假定形で、鴎外は當時の危險思想を書いてゐるんです。鴎外は「保守反動」の思想家だが、單に「保守反動」であるだけではなかつた、鴎外の中には右もゐたが左もゐた。だからはつきり、自分は神話など信じない、と明言出來なかつたが(「古事記」の神話を否定するなんて出來ない時代です)、疑問や假定と云ふ形で、鴎外は言つてのけたのです。

しかし鴎外は、恰も神話を信じてゐる「かのやうに」してゐればよいのではないと云ふ事に氣附かされます。明治天皇の死と、乃木大將の殉死に鴎外は驚愕する。殉死した乃木大將は、主君である明治天皇を、恰も信じてゐた「かのやうに」振舞つたのではない筈だ──乃木大將は明治天皇を信じてゐたのだ。

それに氣附いた鴎外は、「興津彌五右衞門の遺書」を書いた。そして鴎外は以後、何かを信じてゐる「かのやうに」振舞はねばならなくなつた近代を舞臺にした小説を書かなくなります。

鴎外の歴史小説は「かのやうに」の小説ではありません。ただ明確に鴎外は、「歴史その儘」だらうが「歴史離れ」だらうが、自分の書く歴史小説に描かれた事件は、もはやこの世には存在しないと云ふ事を、そして存在しなくなつたのは不幸であると云ふ事を意識してゐたのであります。