佐藤春夫と森鴎外

佐藤春夫の鴎外ベスト・スリー

批評家や作家が自分の好きな作家のベスト・スリーを上げてゐる『作家とその名作』(毎日新聞社)と云ふ本があります。その中で佐藤春夫が森鴎外のベスト・スリーについて書いてゐます。

『澁江抽齋』について、佐藤はかう書いてゐます。

しかし初期の三部作は文學史的な作品として、また「即興詩人」は原作にまさる創作とはいへ、やはり飜譯だから除外するとして、自分は「澁江抽齋」「雁」、それに「ヰタ・セクスアリス」を加へた3篇をあげたいがどうであらうか。

「澁江抽齋」はおそらくだれも異義のないところであらう。これは詩に劇に小説に評論にさまざまな試みをして自己の文學を年久しく模索しつづけてゐたこの大家が晩年にやつと見つけ出した獨自の、さうしてたぶん純然たる獨創の自然科學的な方法によつて書かれた一種の歴史小説である。實在の人物の史實のうすれて影のやうになつてゐたもののなかに、作者がその知能の全部を傾けおのれの全部を投げ込んで他人の生活をもう一度自己のものとして生き直して見ようとするかのやうな異常な情熱をもつて影繪のやうな史上人物を、あるいは文獻によつて、あるいは自己の體驗と詩的空想とによつて立體化したもので、丸ぼりにされたこの主人公は抽齋にして鴎外、鴎外にして抽齋といふやうな域にまで達した作品である。成功した力作だからその眼力があつてこの一遍を讀破することができさへすれば、これだけで全鴎外を知るに足るといふ代表作である。簡潔で素朴な古典的な文章は讀者になれなれしくするを許さないものであるが、味はふにしたがつて盡きぬ妙味を知るであらう。かはいさうなことに、おそらくは現代の大多數の讀者にはこの文章は讀めまい。この罪はしかし鴎外にはない。

誤字を書いてゐる佐藤

現代教養文庫の『写真文学碑 忘れじの詩歌』(本山桂川著)を讀んでゐたら、こんな記述に出くはしました。

森鴎外の詩碑は、昭和二十九年七月、三十三回忌に、東京、駒込千駄木町の旧居観潮楼跡と、郷里島根県津和野町の旧邸跡に建てられた。津和野の詩碑は、自然石の正面に、鴎外作『うた日記』のうち、「扣釦」の一章五節が二十行に刻んである。これは佐藤春夫氏の筆に成るものだが、原詩に「扣釦」とある部分の文字が四カ所まで「扣紐」と書かれている。これはやはり原詩を尊重して金偏で書いてもらいたかった。鴎外が失つた愛着のボタンの材質からいっても、金偏が正しいのである。困つた失策をしてくれたものだ。

參考文獻