新宣傳論

底本
三木清全集 第15卷
1967年12月18日發行
岩波書店
初出
昭和12(1937)年11月9〜11日「大阪朝日新聞」掲載

 支那事變以來、日本が外國に對して宣傳下手であるといふことが種々問題にされてゐる。宣傳の意義、必要などについて、われわれはあらためて考へ直さねばならなくなつて來たのである。

 いつたいプロパガンダといふ言葉は、一六三三年ローマン・カソリック教會によつて使用されたのが、その初めであるとせられてゐる。しかし宣傳といふものが現在のやうな特徴をもつて現はれるやうになつたのは更にずつと新しくナポレオン時代のことである。殊にあの歐洲大戰は宣傳發達の歴史においても劃期的な重要性をもつてゐる。

 かくの如く宣傳は近代的現象に屬する。それは輿論といふものの場合に類似してゐる。そしてそのことは、宣傳が起り宣傳が必要になるのは、根本において、大衆の政治的重要性の増大と關係のあることを示してゐる。宣傳は常に大衆を相手とし、また特に輿論を統制するために行はれる。そこで日本人が宣傳下手であるとすれば、原因は日本の社會及び政治が近代化されてから、國際的世界に入つてから歴史の淺いことによるといへるであらう。日本では宣傳は自家廣告などといつて輕視され、輕蔑される風がある。しかしこれは我々日本人のうちに残存してゐる封建的意識に過ぎないと見られ得る。自分の行動が正しくありさへすればそれで好いとひとはいふ。まことにさうであるが、他面それはまた獨善に陷り易く、かつ自分の行動にとつて大衆といふものの有する意義を考へないことでもあるのである。自家廣告は美徳でないにしても、われわれの間で「運動」と呼ばれてゐるもの即ち權力或ひは權力を有する個人に對してひそかに自己を推薦することなどに比しては、大衆の前で公然と行はれるだけ罪が輕いといへるであらう。そのうへ宣傳と廣告とは區別されねばならぬ。廣告も或る程度暗示の技術を用ゐるにしても、その讀者である大衆は廣告主の目的の何であるかを知つてゐるのが普通である。廣告を見るとき、われわれは廣告主がそれによつてわれわれの購買の習慣を刺激しようと欲してゐることを知つてゐる。もちろん廣告も宣傳に近づき得る。そしてこの場合には廣告主は自分の目的を隱しながら讀者に自分の欲するやうな影響を與へようと企てるのである。かくの如く、宣傳にあつては宣傳者の實際の目的が讀者或ひは聽衆には知られてゐないのが普通である。これはその目的の善惡とはさしあたり無關係である。善い目的にしても、それを實現するためには、大衆に對して先づそれを隱しておくことが必要な場合もあるであらう。次に廣告と宣傳との相違は、國家の如き團體は自分を廣告するとはいはれないことにおいても認められる。すなはち固有な意味での宣傳の主體は政黨、教會、國家などの團體であり、その自己保存及び自己主張のために宣傳は行はれる。宣傳を必要とするのは、本來、個人でなくて團體であるといふ意味においても、宣傳は社會的なものである。

 宣傳においては實際の目的が讀者或ひは聽衆に對して隱されてゐるのがつねである。從つて上手な宣傳といふのは、それの宣傳であることさへもが分らないやうなものである。宣傳は普通には暗示の技術によつて、知らず識らずの間に大衆に影響を與へ、彼らのうちに一定の觀念、意見、態度を作り出さうとする。しかもその際、宣傳者自身はどこまでも意識的、計畫的である。けれどそれが大衆の側においては知られてゐないといふ點で、宣傳は神話や傳説の形成と類似するであらう。宣傳とはいはば近代的な神話乃至傳説の形成の近代的な方法である。しかし神話や傳説が民衆の間から自然生長的に生ずるに反して、宣傳においては宣傳者自身が同樣のものを目的意識的に作り出さうとする。そこに兩者の差異がある。民衆の間に自然的に生長しつつある神話乃至傳説を計畫的に養ひ育てるといふ場合、宣傳の效果は速かで大きいであらう。宣傳の意義を理解するためには神話や傳説の意義を理解しなければならぬ。前者も後者と同じく社會統制の機能を有し、何よりもそのために必要とせられるのである。統制の時代がまた宣傳の時代であることは、われわれの目前に見る通りである。統制が必要である限り宣傳も必要である。

 宣傳は神話や傳説の形成に類似するものとして單に知的なものであり得ないであらう。しかし他方それは單に大衆の情意に訴へるものであると考へるのも間違つてゐる。かくの如きはむしろ煽動のことである。宣傳は煽動と異なり一層知的なものでなければならぬ。煽動が瞬間的な效果に集中するに反して、宣傳は一層持續的な效果を求める。從つて宣傳は間に合はせにでなくて平素から行はれることが大切である。宣傳は知的なものであるといふ點において啓蒙に近づく。上手な宣傳はそれの宣傳であることが分らないやうにするといふことからも、宣傳は少くとも外面上は啓蒙の形をとることが必要であらう。けれども宣傳と啓蒙とは混同されてはならぬ。啓蒙が主として知的啓蒙であるに對して、宣傳は一層情意的な、一層暗示的な形をとる。啓蒙は大衆の間に批判的精神を喚び起すに反し、宣傳は却つてかやうな批判精神を抑へて統制を行ふことを目的としてゐる。啓蒙の結果は神話に對して破壞的に働くに反して、宣傳の意圖はむしろ神話を養ひ育てること、新しい神話をそれ自身の仕方で作り出すことにある。

 神話をただ過去の時代のものと考へることは間違つてゐる。ナチスの指導者の一人ローゼンベルクの『二十世紀の神話』は全くの宣傳の書である。宣傳と啓蒙とは相反する作用をなし、歴史は兩者を共に必要とするのである。他の宣傳を無力にするには啓蒙は重要な手段である。また先んぜられた他の宣傳に對抗するための自己の宣傳は一層多くの啓蒙的要素を含まねばならないであらう。しかし啓蒙だけで宣傳と同じ效果が得られるやうに思つてはならぬ。すべてかやうなことは今度の事變における對外宣傳についても考慮すべきことであらう。

 著述家は讀者を頭において書かなければならない。これは一つの平凡な規則である。けれども我が國の著述家にあつてはこの平凡な規則の行はれてゐない場合が案外多いのではなからうか。

 日本人が宣傳下手であるといふこともそれと同じ事情に基いてゐる。宣傳とは自分の行動を社會的に評價することである。人間の實踐は本質的に社會的である限り何らかの宣傳はつねに必要であるといへるであらう。思想も行動的である場合宣傳的であることを要求される。

 宣傳の反對は獨善である。宣傳下手といはれる日本人には獨善的な所が多いのではなからうか。宣傳がつねによいとはいへないが、しかし獨善の弊害もなかなか大きい。獨善は封建的なものである。獨善的なところがあつては近代的な宣傳には成功し得ない。宣傳するためにはともかく大衆の中へ降りて來なければならぬ。大衆といふものが發達するに從つて宣傳も重要になつて來るのである。

 獨善的態度の據りどころが「心情の倫理」であるとすれば、政治の倫理はかやうな心情の倫理に止まり得ない。心情の倫理の立場から宣傳を輕蔑するのは政治の本質の理解の不足に基くといへるであらう。政治的動物としての人間はつねに宣傳的である。

 宣傳が大衆の心理を掴まねばならぬことはいふまでもないであらう。この心理は社會的、歴史的に制約されてゐる。それはその國の政治、知的教養の水準、特に習性的になつた思惟や感情の傾向などによつて規定されてゐる。從つて我々が外國に對して宣傳を行ふ場合には、それぞれの國において宣傳の方法を別にしなければならぬのは當然である。民主主義国に對する宣傳と獨裁國に對する宣傳とはおのづから異ならねばならぬ。宣傳は普遍的な論理に訴へる以上に大衆の現實に有する心理に食ひ入ることが大切である。宣傳される内容が普遍性を有するものであるにしても、宣傳そのものはそれぞれの場合に特殊的なものでなければならない。

 宣傳とは誇張することだと考へて宣傳を嫌ふ者があるのは單純に過ぎるであらう。宣傳は啓蒙とは異り情意に訴へる點がある限り誇張も必要である。しかし宣傳においては煽動とは異り一層持續的な效果が求められる限り誇張することは却つて反對の結果を招くことがある。宣傳は大衆の中へ中へと降りれば降りるほど有效である。宣傳される内容が純粹に非合理的なものであるならば、宣傳はもとより成功しないであらう、しかし宣傳は合理的なものをただ合理的に傳へるだけでは足りず、むしろどこからともなく大衆の間に神話が出來てくるのに似たところをもたねばならぬ。

 かくして宣傳の意義と必要とを理解するためには、最も基本的には、自分を社會においてあるもの、世界においてあるものとして把握することが必要である。かやうな社會乃至世界の感覚或ひは意識なしには宣傳は理解されない。しかもそこでは大衆といふものの重要性がつねに理解されてゐなければならぬ。固有の意味における宣傳とは政治的存在としての團體が一方自己自身に對し他方その政治的環境に對して自己保存乃至主張のために行ふ社會統制の技術の一つである。