知性人の立場

底本
三木清全集 第15卷
1967年12月18日發行
岩波書店
初出
昭和13(1938)年7月「知性」掲載

 我々が求める自由は、現状維持の口實としての自由ではない。革新のための自由である。革新のために自由に探求し、革新のために自由に討議する、この自由を知性は要求する。自由主義として自由を排するとき、現状維持派に利せられることなしとしない。

 アジアの統一は、過去の傳統の統一ではない。今や日本の問題は何一つとして支那の問題と無關係でなくなつた。對支文化工作の指導精神と云つても、國内文化のそれと別のものであり得ない。日本の問題の一切を擧げて大膽にも支那の問題と一つに結び附けたところに、今次の事變はアジアの統一を成就した。かくてアジアの統一は、現在の問題の統一である。

 歴史は人間の解決し得る問題のみを人間に課する。日本の知識階級はその前に提出された問題の大いさに欣喜雀躍して然るべきである。

 蒋介石は支那の民族的統一の波に乘つて現はれた政治家である。彼は民族主義の哲學の表現である。支那の民族的統一の完成に先立つて、日本が蒋介石政權と戰はねばならぬといふ歴史的運命におかれたといふことは、民族主義に止まつてこれを越えることなき限り二十世紀の思想であり得ないといふ、世界史の精神の啓示でなくて何か。

 我々の同胞は、幾千となく、幾萬となく、大陸へ渡つてゐる。彼ら支那を見るべし、彼ら支那を知るべし。戰爭は一種の洋行である、戰爭もまた文化的意義を持つてゐる。嘗てこれほど大量の日本人が一度に洋行したことはない。しかもこれらの人々は血みどろの貴い體驗を通じて學ぶのである。日本精神の發露は支那を認識することであつた。この嚴然たる事實から東洋文化史の新しいペーヂは始まる。

 從來日本のインテリゲンチャにとつてコンミュニズムもファッシズムも自由主義ですらも主としてただ紙上の理論として外國から輸入されたものであつた。今や日本のインテリゲンチャにとつて思想はただ現在の日本に課されてゐる現實の問題の解決を通じてのみ可能となるに至つた。我々がどれほど獨創的であり得るかが、日本の運命とともに試練される時が來たのである。しかも日本の問題を解決し得る思想は支那の問題を解決し得る思想であり、やがて世界の問題を解決し得る思想である。問題の深さに戰慄すべし、問題の大いさに挑戰すべし。

 それにしてもこの二十年來、日本のインテリゲンチャの動搖はどうだ。右から左へ、左から右へ、文字通りに右往左往する。知性の自律なくして知識階級といふものはあるか。知性の自律なくして良心といふものはあるか。良心なくして人格といふものはあるか。日本精神の問題も、東洋のルネサンスの問題も、日本の世界史的使命の問題も、個人の良心といふ、いとも小さい問題に集中する。

 知識階級の協力が問題になりつつある。知識階級は協力すべし。だが協力は飽くまで知性の立場からの自發的な協力でなければならぬ。協力が就職運動であつたり、協力が單なる轉向であつたり、協力が私黨化であつたり、協力が官僚主義の再生産であつたりしてはならぬ。

 時はあらゆる不純なものを清掃するであらう。歴史は常に清潔檢査を行つてゐる。