たとへばわれわれがスピノザのやうに必然といふことを理解すれば、われわれは自由になる、なぜならわれわれはそれを受け入れるからだ。が、法則を定めたり自己の評價を斷定したりする獨斷的な批評家の仕事は完全なものではない。かれらの意見も、時間の經濟といふ點からすればしばしば存在理由があるのだらうが、こと重要な問題となれば批評家は強制してはならぬのだし、また良否の判断を下してもならぬのである。批評家はただ單に批評對象のもつ必然性を解明すれば足りるのであつて、然るべき判斷は讀者が自らくだすのである。
と云ふエリオットの文章に、以下のやうな譯註が附されてゐる。
スピノザにとつて、自由とは恣意的な自由ではなく、自由と必然とは一致する。對立は自由と必然の間にではなく、自由と強制との間に存する。だから、ホラティウスやボアロオの批評は個人的經驗にもとづくもので充分に一般化されてゐず、強制的におしつけられるから、讀者に判斷する自由を與へないが、もし批評家が作品のもつ必然性、すなはち文學の傳統の中において占むべきその位置とかそれが生まれてきた必然性などを解明してくれるならば、讀者はかへつて判斷する自由をもつ。エリオットの言はんとするところはさういふことであらう。
完全な批評家
は、讀者に自己の好みを押附けるものではなく、判斷の自由を與へるものである、と云ふエリオットの論文のポイントが指摘されてゐる。とは言へ、的確な判斷の根據が提示されてゐるならば、讀者の自由な判斷も必然的に一つに決る事だらう。
『聲』の第3號に掲載されてゐるパステルナークの「シェイクスピアについて」は、松原正氏の翻訳です。
福田恆存が翻訳を依頼したもののやうです。
トマス・モア だが、私にも小さな……小さな領地がある……自分で支配しなければならない小さな領地が──陛下にとつては、テニス・コートほどの廣さもない領地が。
創元推理文庫のききめであるらしい。