地球上に人類が棲息するやうになつてから今日まで「みんなが幸福である國」なんぞただの一度も存在した例しが無い。イギリスから新大陸に渡つた理想に燃える御先祖樣も刑務所と墓場を拵へる事だけは忘れなかつたと、ナサニエル・ホーソンは「緋文字」に書いてゐる。人間は必ず惡事をなすから刑務所が、必ず死ぬるから墓場が、共にどうしても必要なのであり、「みんなが幸福」どころか、一個人でも常に幸福といふ譯に行かないのは、人間が惡事をなし死ぬるからに他ならない。成程、この世には「惡徳の榮え」といふ事があつて、實際、惡事は快なのだが、それは結構な事なので、善が快で惡が苦であるやうな社會に道徳は存在しない。道徳とは葛藤だからである。だが、道徳が葛藤であるのなら、惡は快だが快であつてはならず、善は苦だが苦であつてはならぬ、といふ事になる。さう考へなければ、例へば「マクベス」のやうな作品が傑作として通用してゐる事實を説明する事が出來ない。マクベスは國王になりたくて國王を殺した極惡人だからである。だが、國王ダンカンを暗殺するまでのマクベスは激しい良心の呵責に苛まれ、さういふマクベスにシェイクスピアは實に美しい臺詞を與へてゐる。それは詰り、惡は快だが快であつてはならぬと作者が信じてゐたからに他ならない。
けれども、「惡は快だが快であつてはならぬ」などといふややこしい議論は、「みんなが幸福」云々や「無原則」が日本の「前進の原動力」云々のやうに單純明快でないから決して俗受けしない。俗受けするのは成程と思つたらそれを實行に移せる類の、いや正確に云へば實行に移せると馬鹿が思つて虚しく喜ぶ類の論議である。西尾は書いてゐる。
世の中にはよく一般的抽象的論議を好み、現實を動かすのに役に立たないばかりか、現實とほとんど接點をさへもたない論議を積み重ねても平氣でゐるといふ人がゐる。哲學ならそれでもいいが、教育學とか經濟學とか法律學とかで、これでは困るだらう。
私は現實に關するテーマであれば、一般的抽象的論議よりも前に、たつた一つの具體的で、個別の現實を解決することがなによりも大切だと考へる。一つでもいい、現實を動かすことが緊急である。指をくはへて惡口だけを言つてゐても仕方がない。(「歴史を裁く愚かさ」、PHP研究所)
小兒でもなし、我々が指を銜へるのは傍觀する時で、傍觀する時には人の惡口は云はない。第一、指なんぞ銜へたら惡口を云ひたくても云ひ難くて仕樣が無い。早い話が、私がかうして西尾を罵る時、私は指なんぞ銜へてゐないし、西尾の粗雜を傍觀してもゐない。西尾の文章は數行に二つ三つは粗を捜し出せる類の惡文であり、事ほど左樣に西尾の頭腦は粗雜なのだが、それはさて措き、右の西尾の主張に私は同意しない。「現實を動かすのに役に立たない」論議が人生には絶對に必要であり、知識人の役割は「個別の現實を解決する」事にはないからである。ソクラテスはフィロソフォスであつた。フィロソフォスとは知る事を愛する者といふ意味である。ソクラテスの時代にはソフィストが跋扈してゐて、その仕事は若者に雄辯術を傳授する事であつた。當時、雄辯が出世の條件だつたから、ソフィスト達の仕事は有用で、有用だつたからその商賣は大いに繁盛したし、實際、「現實を動かす」のに確實に役立つた。一方、街角に立つて青年達と問答して、謝禮を一切受取らなかつたソクラテスは「青年に害毒を流す」罪とやらで死刑に處せられたが、死刑にせよと要求したのはソフィスト達であり、それは詰り、ソフィストは當時のアテナイの「現實」を動かしたが、ソクラテスは動かさず、ソフィストの議論は「個別の現實を解決」したが、ソクラテスのそれは「現實とほとんど接點」を持たなかつたといふ事に他ならない。
ソクラテスは知る事を愛したが、「現實と接點」のある詰らぬ事どもを知りたがつたのではない。彼が知りたがつたのはイデアであり、イデアとは云はば究極の姿である。例へば、人間の人相や皮膚髪の色は千差萬別だが、鼻があつて目が二つあつて口が一つ、それは共通してゐる。だが、それが人間のイデアだとは云はれない。鼻や目や口なら他の動物も持合はせてゐる。けれども、惡事を快としながら惡事が快であつてはならぬと思ふ事、それは人間だけの特色であり、してみれば善惡の葛藤に苦しむ事が人間のイデアなのか。さうとも云はれない。シェイクスピアが描いたリチャード三世は、マクベスと異なり、良心の呵責に苦しまないし、かの宮崎勤や酒鬼薔薇とて外見的には五體滿足の人間なのである。
それに何より、我々は安直に善だの惡だのと云ふが、善とは一體何なのか。何が善のイデアなのか。イデアである以上、それは全き善でなければならないが、全き善も善人も「現實」には存在しない。全き惡とて同じであり、盜人にも三分の理がある。殺人は惡だと人は氣易く云ふが、戰場で敵兵を殺す事も惡人を裁き處刑する事も共に惡とは云はれない。それゆゑパスカルは「パンセ」にかう書いたのである。
なぜ殺すかだと、だつて君は川向うに住んでゐるぢやないか。こちら側に住んでゐる君を殺せば人殺しだが、向う側の君を殺せば私は勇士になるのさ。
さて讀者諸君よ、かういふ論議は「現實を動かすのに」役立つだらうか。無論、何の役にも立ちはしない。では、役立たないから下らないか。斷じてさうではない。北朝鮮と中共とは豆滿江を插んで鄰接してゐる。河のこちら側の北朝鮮で市民が市民を殺せば人殺しだが、戰時、河の向う側で中共の兵隊や市民を殺しても犯罪にはならない。考へてみると隨分奇怪な事だと、さう思ふ事は斷じて無駄ではない。我々の周邊には「考へてみると隨分奇怪な事」どもが澤山轉がつてゐる。哲學のパトスは驚異の念だとプラトンは云つたが、奇怪を奇怪だと思つて驚いて、なぜそんな奇怪な事がと考へ始める、それが本當の思索の端緒なのである。殺す事が或時は惡で或時は惡でないのなら、善も惡も相對的であり、軍國主義も侵掠も敗戰も絶對惡ではなく、極東國際軍事裁判なんぞは茶番に過ぎないと知れる。そしてさうと知つたら、聯合國の不當を論ふ暇に、サンフランシスコ講和條約締結以後、久しく「押し附け憲法」を改正せずゐた我々自身の知的・道徳的怠惰のはうを恥づべきだと、さういふふうに考へる事が出來る。「押し附け」たアメリカが惡いとは私は思はないが、假に惡いとしても、それは媾(講)和條約締結までの事である。日本人は十二歳だとマッカーサーは云つたが、十二歳の子供が「押し附け」られた不條理を不條理と思はず忍從するのは致し方が無い。けれども、長じて五十歳にもなつてなほ忍從して、間歇的に「押し附け」た奴を恨むなら、そいつは大莫迦の腰拔けのこんこんちきである。
先般、五月三日、西部邁は産經新聞に、憲法第九條を「侵掠戰爭はしないといふ目的に反するやうな戰力や交戰は認められない」とでも改めたらよいと書いた。「廣辭苑」の定義によれば、目的とは「成し遂げようと目指す事柄」だから、何々「しないといふ目的」なんぞこの世に存在する道理は無いが、假に離婚「しないといふ目的」を成就すべく努力してゐる夫婦がゐるとして、その場合、離婚は望ましからざる事だと夫婦は思つてゐる譯であり、「侵掠戰爭はしないといふ目的」とやらを重視する西部も、侵掠戰爭を「望ましからざる事」だと今なほ思ひ込んでゐる。西部の知的怠惰は反戰平和の「左翼進歩派」のそれと本質的には變らない。離婚とは何かについて深刻な意見の對立はあり得ないが、十六年前、「戰爭は無くならない」に縷々述べたやうに、侵掠といふ言葉は明確に定義されてをらず、當然、侵掠と自衞の境界も定かではない。詰り、「侵掠」の正體はしかと解らない。而るに、正體の知れぬ物について正體が知れぬままに論ふから、知的怠惰の粗雜な文章しか綴れないのである。「戰力」といふ言葉にしても至極不明瞭であり、一箇大隊と一箇中隊の戰力の差は必ずしも明確ではない。戰力とは武器の數と志氣との足し算ではなくて掛算だからである。
而も、パスカルの云ふやうに、「子午線が眞理を決定する」のだから、今も昔も戰爭當事國の雙方が自國の戰爭は聖戰だと主張する。朝鮮戰爭の折は三十八度線が「眞理を決定」して、韓國と北朝鮮は互ひに相手の侵掠を難じ、以來、韓國は北の南進に、北朝鮮は南の北進にそれぞれ備へてゐる。漱石の云ふやうに國家と國家との間に道義は存在しない。或る國が他國に對して道義的に振舞ふのはそれが國益に叶ふからであり、國益に叶ふのなら時に「掠奪侵掠」をも敢へてする。それゆゑ「侵掠戰爭はしない」などといふ文言は凡そ無意味であり、世界中のどの國の憲法にもさまで腰碎けの文言は記されてゐない。「國益」乃至「自衞」の爲に「掠奪侵掠」をも敢へてするといふ事、それは憲法なんぞに記す必要が無いほど自明の事だからである。日清戰爭から大東亞戰爭まで、日本がやつた戰爭も全て「自衞の爲の侵掠」に他ならない。福澤諭吉は書いてゐる。
今西洋の諸國が威勢を以て東洋に迫る其有樣は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸國殊に我近鄰なる支那朝鮮等の遲鈍にして其勢力に當ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に應援するは、單に他の爲に非ずして自らの爲にするものと知る可し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に倣て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざるの場合に於ては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。(「時事小言」)
これは知的に誠實な文章である。明治以降の日本は支那朝鮮を「力を以て」脅迫した。脅迫して效果が無かつたから「侵掠」を敢へてした。脅迫して效果が無いからとて諦めるくらゐなら最初から脅迫しないはうがよい。それゆゑ、日清戰爭から大東亞戰爭までの戰爭を「侵掠戰爭」と呼ぶのは怪しからぬ事ではない。「侵掠戰爭」で結構、だが、それは日本だけでなく列強が皆やつた事である。アメリカはハワイやフィリッピンを、イギリスはインドやビルマを、フランスはインドシナを、それぞれ侵掠した。然るに、獨り日本だけが今なほ自國の「侵掠戰爭」を悔いてゐる。侵掠と自衞との境界が明確でないのに、前者は惡で後者は善だと思ひ込んでゐる。怪しからぬのはその日本人の知的怠惰であり、無論、それは左翼進歩派に限つた事ではない。小林よしのりは「戰爭論」にかう書いてゐる。
私鬪は承認されない暴力だ。それに對し戰爭は承認された暴力と言はれる。本來的には、略奪も強姦も虐殺も、あらゆる暴力が承認された状態。平和時の秩序を無秩序に變へるキレまくりの状態が「自然な戰爭」なのかもしれない。(句讀點松原)
福澤の文章と異なりこれは知的怠惰の文章である。戰爭は國家によつて「承認され」る軍事力の行使だが、決して「暴力」の行使ではない。武力革命の事を「暴力革命」とも云ふから兩者が混同して用ゐられる事は事實だが、「侵掠戰爭で結構」どの國もやつたではないか、とは云へるが、「暴力」で結構どの國もやつた、とは云へない。云へないから各國の軍隊に憲兵組織がある。ヴェトナム戰爭はアメリカの「暴力」ではないが、ソンミ村の住民虐殺は暴力沙汰であり、それゆゑ責任者のカリー中尉は裁かれた。が、ジョンソン大統領もマクナマラ國防長官も裁かれてゐない。マックス・ウェーバーの云ふやうに「強制力の正當な行使」が國家の專權事項であり、個人的になされる「略奪強姦虐殺」は正當とは見做されない。それゆゑ、戰爭は斷じて「略奪も強姦も虐殺も、あらゆる暴力が承認された状態」なのではない。兵隊の強姦が何で戰鬪行爲なのか。
言葉を正確に使ふ事、或は少なくも正確に使はうとする事、それは物を書く者の義務である。言葉は思考の道具であつて、切れない道具を使ふから頭も切れずに「キレまくり」になる。大東亞戰爭中、一人のアメリカ兵が日本兵の頭蓋骨を本國の女友達に「記念品」として送り、禮状を認めてゐる女の冩眞が「ライフ」に載るといふ事があつた。小林の「戰爭論」からの孫引きだが、それについて西尾はかういふふやけた文章を綴つてゐるといふ。
ナチスの強制收容所で犠牲者の皮膚からランプのシェードが造られ(中略)たといふ話はいつ聞いても背筋が寒くなるが、日本兵頭蓋骨の記念品は、それに勝るとも劣らぬ異常心理である。ここまでしたのはナチスとアメリカ軍以外にない。ただ、戰勝國の特權でアメリカの蠻行は忘れられてゐる。敗戰國の殘虐だけが誇大に傳へられすぎてゐる。日本に軍國主義があつたやうに、アメリカにも軍國主義があつたのだ。ある意味では日本以上の。
軍國主義はお互ひさまだといふことを認めないアメリカを日本人は決して許してゐない。廣島は市民殺傷效果を見るに最適規模だから選ばれたのであつて、重要軍事基地だから選ばれたのではない。
(中略)日本人をモルモットにしたアメリカの實驗はまさにナチスの犯罪と同じ「人道に對する罪」であつて、普通の「戰爭犯罪」とすらいへないのである。(句讀點松原)
まづ第一に、「ナチスの強制收容所」から「異常心理である」までの文の主語は「日本兵頭蓋骨の記念品」であり、「異常心理である」が英文法に云ふ述部である。だが、記念品が「異常心理」とは、一體全體、どういふ事なのか。記念品は物體であつて心理ではない。西尾の駄本の愛讀者は「それで通じるぢやないか」と云ふだらうが、切れない鉋で削つた板が凸凹になるやうに、駄文で通じる類の事なら下らないに決つてゐる。「ここまでしたのはナチスとアメリカ軍以外にない」と西尾は云ふが、夫が寵愛した妾の手足を切斷して糞壷に捨てた妃が昔の支那にはゐたし、我が日本國にも、殺した小學生の頭部を小學校の校門に遺棄した少年がゐた。かの宮崎勤も幼女の髑髏を磨いて樂しんだではないか。
第二に、「アメリカの蠻行」が忘れられてゐる事と戰勝國の特權とは何の關はりも無い。忘れられてゐるのは忘れる者がゐるからで、忘れたのは日本人だが、それはアメリカが權柄づくで忘れさせた譯ではない。何かを誰かの特權によつて忘れさせる事など出來はしない。「アメリカの蠻行」が忘れられるべきでないのに忘れられたのなら、それは忘れた奴が惡いのである。
第三に、敵兵の髑髏を記念品として贈る米兵がゐて、禮状を書く女の冩眞が雜誌に載つた事や原爆投下が、なぜ「日本以上の」軍國主義なのか。再び「オックスフォード英語辭典」によれば、「軍國主義」とは民衆の「軍事愛好」、「軍人階級の優位」、或は「軍事的效率を國家の最大關心事と見做す傾向」の謂ひである。戰時に「軍事的效率」を優先させ、民衆が好戰的になるのは餘りにも當り前の話で、それは成程「お互ひさま」だが、戰時中のアメリカは軍人を大統領にはしなかつた。ルーズベルトもチャーチルも軍人だつたが軍服を著たまま大統領首相になつた譯ではない。敵兵の髑髏を贈るのは好戰的敵愾心ゆゑの愚行だが、全ての米兵がさういふ「異常心理」の持主だつた譯ではない。
第四に、アメリカの原爆投下が「人道に對する罪」であり、普通の「戰爭犯罪」よりも酷いとはどういふ事なのか。「人道に對する罪」とはナチスによるユダヤ人虐殺を裁くべくニュルンベルク國際軍事裁判が規定した非戰鬪員に對する非人道的「戰爭犯罪」の事で、東京裁判においてもそれが適用されたが、法の不遡及なる原則に惇るとて敗者が勝者の裁判を難ずる事も、普通の「戰爭犯罪」よりも酷いとて原爆投下を難ずる事も共に全く無意味である。戰爭は犯罪ではないのだから、「戰爭犯罪」も「人道に對する罪」も存在しない。存在しない物に「普通」と異常の別は無い。それに何より、負者が勝者の非道を五十年も言ひ立てるのは漫畫であり、その漫畫的無意味を西尾が悟らないのは二流のデマゴーグだからであり、二流のデマゴーグの駄文を引いて漫畫家が煽情的な駄文を綴り、それを何十萬もの莫迦が喜んで溜飲を下げるのは、これはもう絶望的な氣の滅入る漫畫である。小林は書いてゐる。
わしは昔、高崎山のサルを見に行つた。クソザルどもがわしのやるヱサをキツキと爭つて取つて食ひよる。眞つ赤なケツ出して下等なサルどもである。こいつらの前でチンチン出してもなんも恥づかしくない。すつぱだかになつてオナニーしても恥づかしくないやろね。ケモノだもんなこいつら。(「戰爭論」)
人間誰しも心中密かに卑猥な事を考へる。「チンチン出して」とか、或いはそれ以上の事を夢想する。だが、眞つ當な人間は決して口に出してそれを云はない。なぜ云はないか。云はれた者が當惑するからである。然るに愚かな小林は、「チンチン出して」などと書いたら、その途端に夫子自身が「ケモノ」以下の存在に墮するといふ一事を悟れずにゐる。而も、「ケモノ」以下になつて道化て見せるのは「白人の黄色人種に對する差別」を強調する爲であり、それがいかに凄まじい蔑視であるかは曾田雄次の「アーロン收容所」を、「讀めばわかるつ。讀めばわかるんだーつ」と小林は書いてゐる。「讀めばわかるつ」らしい會田の本は中公新書に納められてゐて簡單に入手出來るから、ここでは別の著書の一部を引いておく。或る古年次兵についての記述である。
かれの初年兵いぢめには狂氣じみたところがあつて、何かぞつとさせられた。私など、もちろん一番に目の敵にされた。よく足の指先に、どこからかくすねてきた刺身の一片をはさみ、「大學講師よ、食ふか、食へ」とやられたのには、まつたく閉口した。食べないと「それは、私なんぞの料理は食べられませんやろな」といはれ、氣絶するぐらゐなぐられるし、食べるとみんなの輕蔑を買ふ。他の古年次兵からは、「貴樣それでも帝國軍人か」となぐられる。どちらにしても助からない。(「ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界」新潮社)
アーロン收容所におけるイギリス人の「黄色人種」蔑視を冷靜に描いた會田が、ここでは日本人の初年兵いびりを淡々と描いてゐる。會田はデマゴーグではない。デマゴーグは條理ではなく情緒によつて衆愚を動かさうとするから、矛楯するかのやうに見える事は書かない。イギリス兵の惡口を書いて受けたら日本兵の惡口は決して云はない。だが、これはゴシック體で印刷して貰ひたい位だが、自國を愛する爲に、なぜ我々は他國を罵らねばならないのか。 (續く)