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保守とは何か

連載第五囘 西尾幹二氏を叱る〈其ノ一〉

1

 駄目な物書きに「お前さん駄目だ」なんて幾ら云つても駄目なんだ、駄目な奴を自然に無視出來るやうになるのが一番いいのぢやないかと、昔、小林秀雄は云ひ、以後、駄目な物書きに「お前さん駄目だ」とは云はないやうになつた。その代り、駄目な物書きの文章を小林は讀まないやうになつたのではないかと思ふ。讀まないから途轍も無く駄目な大江健三郎にも好意的だつたのだと思ふ。私も、去年、西部邁の駄文を添削して以後、駄目な物書きの文章をさつぱり讀まなくなつた。豫言しておいた通り、西部は私に反論出來なかつたが、反論しない事によつて西部のはうが勝つた。論壇の「人斬り以藏」たる私に執筆を依頼するのは今や「月曜評論」くらゐのものだが、依頼されて書く氣になれないのは書かなくても食へるからであり、負け戰の虚しさを毎度痛感するからである。成程、駄目な物書きに「お前さん駄目だ」と幾ら云つても駄目だが、せめて讀者が成程これは駄目だと思つてくれるのなら、思つてくれるといふ確信が持てるのなら、負け戰もさまで虚しくはない。だが、「月曜評論」の讀者は「諸君」や「正論」の讀者よりも遙かに上等であらうか。この三月に私は早稻田大學を退職するが、早稻田の學生は餘程上等で、學生の私語に私はついぞ惱まされた事が無い。私が机上にノートを開いて、顔を擧げ、講義を始めようとすると、一拍おいて教場は靜まり返る。毎囘同じである。それゆゑ私は滅多に休講しなかつた。教へる事の虚しさなんぞただの一度も感じなかつた。「なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや」とイエスは云つたが、我ら凡夫は「己を愛する者」しか愛せないのであつて、學生が眞劍に聽かないのなら教師の情熱は滾りやうがない。

 だが、今、私はかうして「月曜評論」に書いてゐる。最後の授業でウイリアム・ブレイクとグレアム・グリーンについて講じた序でに西尾幹二を斬つて、それが切掛けで西尾が駄目であるゆゑんを「月曜評論」の讀者にも傳へようといふ氣になつた。西尾は最近「國民の歴史」といふ本を書いて、それが六十萬部も賣れたといふ。粗雜な頭腦の持主が書いた物なら六百萬部賣れようと駄本だから、私はまだ讀んでゐないが、一月十一日、朝餉の紅茶を啜りながら産經新聞「正論」欄に載つた西尾の惡文を讀み、これは捨て置けないと思つた。昨年末、ニューヨーク・タイムズの支局長が西尾に、「年々西暦の使用が廣まり、つひにミレニアムのカウントダウンまでがお祭り騒ぎで行はれる」現状をどう思ふかと尋ねたのださうである。西尾はかう書いてゐる。

 なぜ私にことさらにこの質問を? と反問したら、つねづね傳統價値を主張している日本人に、日本社會で使われてきた暦が消えていくことによってその暦で培われてきた文化が失われていく危險性を感じていないかを知りたいためだ、といふ應答である。こう言われると私は、さりげなく、たいして氣にもかけてゐませんよ、と本能的に防戰する構えになる。(原文のまま)

 何ともはやふやけた文章である。まづ、日常會話において我々は「消えていく」とか「消えてく」とか云ふ。が、文章を綴る時は「消えて行く」と書かねばならぬ。國語を美しい状態に保つ責任が文學者にはあるとT・S・エリオットは云つてゐるが、「行つちやつて」といふ言葉は汚くて「行つて仕舞つて」が美しい。小學生だつた頃の私は「春の小川はさらさら流る」と歌つたが、今の小學生は「さらさら行くよ」と歌つてゐる。確かめる暇が無いから確かめてゐないが、事によると「さらさらいくよ」と歌つてゐるかも知れない。安直な言葉遣ひは安直な思考の證しであり、川は流れる物で行く物ではない。同樣に、「消えていく」と書いて平氣でゐられる男は、常々「傳統價値を主張」しながら實はそれが「消えていく」事を「たいして氣にもかけて」ゐない。嘗て元號の使用を禁じられ本誌の編輯發行人中澤茂和は辭職したが、さういふ「稚氣」は西尾幹二の想像を絶する事であるに違ひ無い。

 「傳統價値」の衰退を「たいして氣にもかけ」てゐないから、西尾は略字新假名を用ゐて御先祖樣の流儀を無視し、「傳統價値」とか「消えていく」とか書いて平氣でゐる。それも「さりげなく」平氣でゐる。

 「行く」を「いく」と書くなどとは些細な疵ではないかと讀者は云ふか。斷じてさうではない。交響曲も文章も同じ事だが、部分が駄目なら全體が駄目なのである。ニューヨーク・タイムズの支局長は西尾が「危險性を感じてゐないかどうか」を知りたがつたのであつて「感じてゐないか」を知りたがつたのではない。「感じてゐないか」と尋ねる事は出來るが「感じてゐないか」を知りたがる事は出來ない。早い話が、友人に「西尾の文章は駄文だと思はないか」と私が云ふ時、私は「無論、思つてゐるさ」との返事を期待してゐるのであつて、駄文だと思つてゐるかどうかを知りたがつてゐるのではない。そしてその友人が「駄文しか綴れぬ愚者の書く本が六十萬部も賣れる事の危險性を感じないか」と尋ねたら、私は斷じて「本能的に防戰する構へ」なんぞになりはしない。防戰とは他者の攻撃に對して戰ふ事だが、友人は西尾を「攻撃」しようと思つてゐて私を攻撃しようとは寸毫思つてゐない。支局長も同じである。彼は西尾の感想を聞きたがつたのであつて、西尾を「攻撃」しようと思つたのではない。攻撃の意圖が無い他者に對して「防戰の構へ」を採る必要は全く無い。しかく杜撰な文章は杜撰な思考の證しなのである。

2

 「年々西暦の使用が廣まり、つひにミレニアムのカウントダウンまでがお祭り騒ぎで行はれる日本の現状」を「たいして氣にもかけて」ゐない男が「傳統」的な言葉遣ひを重んずる筈は無い。「傳統價値」とは要するに御先祖樣の流儀だが、御先祖樣は「防戰」といふ言葉を「攻撃に對して戰ふ」といふ意味合に用ゐたし、好んで元號を用ゐて西暦は已むなく用ゐた。「失はれる」と書いて「失われる」とは書かなかつた。傳統とは「先祖にも選擧權を與へる事」だとG・K・チェスタトンは書いてゐる。至言である。先祖の流儀が無視される事を「たいして氣にもかけ」ない者は決して「傳統價値」の信奉者ではない。略字新假名で書く者は保守主義者ではない。保守主義者西尾幹二とは甚だしい形容矛盾である。西尾はまたかう書いてゐる。

 日本人は外國からの壓力の度が過ぎるとこれを武斷的に排除したがる性格を持つ反面、周知の通り、深い考へもなしになんでも無差別に外國のまねをしたがる矛盾した性格を持つてゐる。(中略)日本人のこの無原則ないし無性格は、ほとほといや氣のさすこともあるが、日本の前進の原動力でもある。一見して外國崇拜のいやらしい形態をとりながら、じつは確實に普遍文化をとりこむといふ結果をひき起こすのは、文化に國境を見ないこの無差別主義のせゐでもある。

 かういふ杜撰な文章を讀んで「無原則ないし無性格」な六十萬もの愚者が、さうか、「ミレニアムの馬鹿騒ぎ」も「前進の原動力」なのか、とて安堵する圖を想像すると氣が滅入る。成程、「昨非今是」の無原則は我々の宿痾だが、それが宿痾である事だけは承知してゐなければならぬ。無原則とは「原則が無く、成行き次第で變る」事だが、成行き次第でころころ變る無節操は斷じて美徳ではない。敗戰なる「成行き」に應じて豹變したジャーナリストを苦々しく思つて、太宰治はかう書いた。

 日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたつて、それはもう自由思想ではない。それこそ眞空管の中の鳩である。眞の勇氣ある自由思想家なら、いまこそ何を於いても叫ばねばならぬ事がある。天皇陛下萬歳! この叫びだ。昨日のまでは古かつた。古いどころか詐欺だつた。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。

 昨日まで「古いどころか詐欺」だつた「天皇陛下萬歳」が今日「最も新しい自由思想になる」、それもまた日本人の無原則の證しではないか、とて太宰を皮肉る事も出來る。だが、太宰は云へるやうになつて云ふ言論の安直を憎んだのであり、さういふ言論の安直を忌む美徳が失はれて久しい事を私は悲しむ。「眞空管の中の鳩」とは杜撰な云ひ方だが、鳩が空を飛べるのは空氣の抵抗があるからで、眞空なら鳩は飛べないといふ意味である。抵抗がある中は決して云はないが抵抗が無くなれば安心して云ふ、さういふ無原則の「眞空管の中の鳩」ばかりが、今、のさばつてゐる。言論人やジャーナリストばかりではない。嘗て統幕議長栗栖弘臣と東部方面總監増岡鼎とは、本當の事が「云へない」時に本當の事を云つて防衞廳長官に首を刎ねられたが、今は腰拔けの空幕長でも「空中給油機を導入する」と發言する。憲法改正を優男の野黨黨首が主張して無事である。だが、さういふ「眞空管の中の鳩」にはかういふ文章ばかりは斷じて綴れない。敗戰後、神風特別攻撃隊員が闇屋になつて、雪崩を打つたやうな「轉向」が始まつて、老いも若きも「無差別に外國のまね」をやつてゐた頃、火野葦平は戰犯の指定を解除して貰ふための申請書にかう記してゐる。

 私は愚昧でありまして、戰爭の眞の意義といふやうなものに全く無知でありました。ただ、いかなる意味の戰爭にしろ、戰爭が始まつた以上、そして祖國が興廢の關頭に立つた以上、日本人として國に殉じなければならぬと思ひました。(中略)この私の愛國の情熱が誤謬であるといはれれば、もはや何も申すことはないのであります。

 かういふ文章を讀んで、無論、私は感動する。「月曜評論」の讀者も感動すると思ふ。太宰は弱い男で要領のよい處もあつたが、「成行賣買」が不得手な火野に二つながらそれは無い。だが、火野の文章に感動して後、その虚しさを我々は痛感しなければならない。火野の愚直はもはや我々のものではない。我々のものでないといふ大事の大事たるゆゑんを認識せず、その大事を「たいして氣にもかけ」ないでゐると、「無原則ないし無性格」こそが「前進の原動力」だなどと愚者に云はれて喜ぶ事になる。人間は無原則無節操であつてはならない。が、情けないかな、今の我々は無原則無節操であり、それを後めたく思はずに先人を讃へるのは、先人の所行を惡しざまに云ふ事と同樣の不毛である。例へば石川達三は軍部に迎合して、「小説といふものがすべて國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はない」と書いたが、敗戰後は「マッカーサー司令官が日本改造のために最も手嚴しい手段を採られんことを願ふ」と書いた。「私の所論は日本人に對する痛切な憎惡と不信とから出發してゐる」とも書いた。程度の差こそあれ、この種の無原則破廉恥が我々にもあるといふ事、「保守」にも「革新」にもあるといふ事、それがあるからこそ「あつてはならぬ」と思ふのだといふ事、日本國においてこれくらゐ理解され難い道理は無い。ハムレットはかう語つてゐる。

 生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じつと身を伏せ、不法な運命の矢彈を堪へ忍ぶのと、それとも劔をとつて、押しよせる苦難に立ち向ひ、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一體どちらが。(第三幕第三場、福田恆存譯)

 有名な獨白の冒頭の部分だが、「運命の矢彈を堪へ忍ぶ」のと運命と戰ひ「とどめを刺すまであとには引かぬ」のと、どちらが立派かとハムレットは問うてゐる。「ハムレット」が譯され上演されて一世紀以上になるが、我々は「デンマークの王子」から大事な事を何も擧んでゐない。それはまづ「あれかこれか」なる二者擇一の大事である。人間は常に美的に生きるか道徳的に生きるかの二者択一を迫られる。「あれかこれか」はデンマークの哲學者キルケゴールの代表作で、無論、後者すなはち道徳の大事を説くべくキルケゴールは前者を書いたのだが、例へばドンファンの愉悦を知らぬキルケゴールに後者が書ける筈は無く、また書く筈も無い。シェイクスピアの中にはハムレットがゐるがイアゴーもゐる。キルケゴールの中にはドンファンがゐる。我々の中に、情けない事だが、石川達三がゐる。西尾幹二もゐる。それを情けないと我々は思はねばならぬ。

3

 さて、この邊で西尾の駄文に戻るが、極東軍事裁判のパール判事は日本を辯護して「ハル・ノート如き代物を突き附けられたら、モナコのやうな小國でも武器を取つて立上がるであらう」と云つた。その通りであつて、「外國からの壓力の度が過ぎ」たならば、相應の軍隊を保持する以上、いかなる小國も「武斷的に排除」しようとするに決つてゐる。一寸の蟲にも五分の魂はあるからである。それゆゑ「外國からの壓力の度が過ぎるとこれを武斷的に排除したがる性格」と「無差別に外國のまねをしたがる」性格との間に何の矛盾もありはしない。然し、假にさういふ「矛盾した性格」が日本人にあるとして、さういふ「無原則ないし無性格」が「いや氣をさす」なぞといふ事は無い。何かを嫌だと思ふのは人間であつて人間の「無原則ないし無性格」ではない。「無原則ないし無性格」とは人間の屬性であつて人間そのものではない。人間でないものが「いや氣」なんぞをさす道理が無い。

 「外國崇拝のいやらしい形態をとりながら、じつは確實に普遍文化をとりこむ」と西尾は云ふ。何たる粗雜な言分か。開國直後、所謂「大正デモクラシー」の時代、そして敗戰直後、「外國崇拝のいやらしい形態」が存在した事は事實だが、いくら「無節操」な御先祖樣も「普遍文化」ばかりは取込めなかつた。世界各國の文化はそれぞれが獨自なのであつて「普遍文化」なる化け物は絶對に存在しない。存在しない物を取込める道理が無い。日本の相撲取は取組前に鹽を撒く。葬式から戻れば我々も鹽を振り掛ける。我々にとつて怪我や死は「けがれ」だからである。だが、その迷信は日本獨自のものであつて斷じて「普遍的」ではない。アメリカの國技は野球とフットボールだが、野球やフットボールの選手は試合前に鹽なんぞ撒きはしない。昨年、航空自衞隊のT三十三練習機が入間川の河川敷に墜落して二人のパイロットが殉職した。すると瓦といふ防衞廳長官が「洵に申譯無い」とて謝つた。愚かな男である。空自のパイロットが遊覽飛行をやつてゐて河川敷に墜落したのなら平身低頭謝つてもよい。が、二人のパイロットは戰時に備へ操縱技倆を保持するための訓練をやつてゐた。それを航空自衞隊は「年次飛行」と呼んでゐる。無論、ルーティーンだから、年次飛行の折、後席のパイロットが終始居眠りをしてゐる事もある。だが、入間川の河川敷に突込んだパイロットは民家を直撃する事を恐れ、操縱桿を握つて離さず、脱出する機を逸したのであり、河川敷に落ちたと知つて、それを思はぬやうな長官に長官の資格なんぞありはしない。

 それはともかく、文化は「普遍」的でないから、墜落といふ非常事態にも彼我の差異が露呈される。米空軍のパイロットは氣輕に「非常脱出」をするし、實戰の折も「生きて虜囚」となる事を恥だとは思はない。さらにまた、航空機が墜落した場合、自衞隊は生存の可能性がゼロだと知りつつも執拗に捜索するが、米軍は頗る合理的で、非情で、生存の見込みが無くなれば捜索を打切つて仕舞ふ。日米兩軍の流儀のどちらがよいかを輕々に斷ずる譯には行かないし、斷ずるのは無意味だが、彼我の文化はそれほど異質なのであり、それゆゑ「普遍文化」なんぞは斷じて存在しない。西尾はまたかう書いてゐる。

 日本文化は貯水池のやうな深さがある。何を外から入れても、アイデンティティが壤れない安心感がある。何を入れても結局何も入らないからかもしれない。

 惡文を綴るのは頭が惡いからであり、頭の惡い「オピニオン・リーダー」がリードする國は三等國である。自國が三等であつてよい道理は無いから、私はこれまで多數の物書きの知的怠惰を批判したが、道徳的怠惰は批判しなかつた。他人の道徳的怠惰を批判する資格が自分にあるとは思へないからである。だが、知的怠惰なら幾らでも批判してよい。西尾の文章は出來のよい高校生なら到底綴れぬ程の惡文である。さうではないか。「何を入れても結局何も入らない」などといふ馬鹿げた事がこの世に存在する道理は無い。何かを入れようとして入らないといふ事はある。針の穴に駱駝は通せない。愚者西尾幹二の小さな頭に智惠を「入れよう」としても駄目である。だが、西尾の頭に智惠を「入れても入らな」かつたといふ事は無い。「入れても」とは「入つた」事を前提にして用ゐられる言葉であり、「入つた」物は入つたから入つたのである。

 我々はハムレットから何も學ばなかつたが、西尾もニーチェの頭腦明晰に學ばなかつた。だが、歐米文化が「普遍文化」なら、それを「入れよう」としたり學ばうとしたりする必要なんぞ全く無い。「廣辭苑」によれば普遍とは「すべてのものに共通に存する」事であり、例へば好色は普遍的だが、毛唐の好色に學ばうとする馬鹿はゐない。他人が持つてゐる物を我々は欲しがらない。「學ぶ」は「まねぶ」とも讀む。學ぶ事は眞似る事であり、我々が何かの眞似をするのはその何かを持合せてゐないからである。「唯に明言するも間違ひなきは、我國の等位の甚だ高からざること、國力の甚だ強實ならざること、國交上經驗不足なることなり」と森有禮は云つたが、高い等位と強實な國力とを持合せてゐなかつたから、明治の日本は歐米列強に學ばざるを得なかつた。「日本人は外國崇拝を胸を張つて行つて、自國文化の獨立にかへつて役立ててきた珍しい國」だと西尾は書いてゐる。支離滅裂の論である。「自國文化の獨立に役立てる」云々と書く以上、自己文化の「獨立」が大事だと思つてゐる譯だが、「獨立」してゐる文化は斷じて「普遍文化」ではないし、劣つてゐるから學ぶ事は決して恥ではないものの、崇拝とは「胸を張つて」やる事ではない。「西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくとも宜いと云へば夫迄であるが、情けないかな交際しなければ居られないのが日本の現状でありませう。而して強いものと交際すれば、どうしても己を棄てゝ先方の習慣に從はなければならなくなる」と漱石は語つたが、自國の「等位」の「高からざる」事を認めた先人や、列強の「習慣に從はなければならない」事を「情けない」と思つた先人がゐたのだから、西尾の言分は十把一からげの、俗耳に入り易い俗論に他ならない。そしてその手の俗論が卑屈な拝外主義の反動としての夜郎自大の排外主義を育てるのである。(續く)

初出