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保守とは何か

第四囘 西部邁を叱る(續々)

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 「左翼」とは、元來、十八世紀のフランス國民議會に於て、議長席から見て左手に陣取つてゐた議員を意味する言葉で、左翼のジャコバン黨は急進的、右翼のジロンド黨は穩健だつたが、それは政治的信條乃至遣り口の違ひであつて道徳的な生き方の相違ではない。恐怖政治の代名詞のやうに云はれるロベスピエールはジャコバンだつたが、その私生活は頗る禁慾的で、同じくジャコバンのダントンのそれは頗る放埒であつた。そして放埒なダントンは「寛容」に過ぎるとて清潔なロベスピエールに處刑されてをり、道徳的に潔癖な奴が獨裁的獨善的に、放埒な奴が寛大に振舞ふといふ事が人生には屡々ある。そして「獨裁的獨善的」とか「寛容」とかいふ道徳的概念は政治信條の如何に關はらない。ジロンドにもジャコバンにも、自民黨にも社民黨にも、韓國にも北朝鮮にも、「獨裁的獨善的」な奴がゐて「寛容」な奴がゐる。愛妻家がゐて女誑しがゐる。正直者がゐて嘘吐きもゐる。それゆゑサミュエル・ジョンソンは「愛國心は惡黨の隱れ蓑」だと云ひ、漱石は「山師、人殺しも大和魂を有つて居る」と書いた。「吾輩は猫である」の一節を引かう。

 大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸が云ふ。大和魂が一躍して海を渡つた。英國で大和魂の演説をする。獨逸で大和魂の芝居をする。(中略)東郷大將が大和魂を有つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐僞師、山師、人殺しも大和魂を有つて居る。(中略)大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。(中略)三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る。(中略)誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か。

2

 漱石がこれを書いたのは八十餘年も昔の事だが、今も「天皇拔きのナショナリズム」を論ふ手合は、ナショナリズムと愛國心とを腑分けせず、それが「三角なもの」か「四角なもの」を知らぬままに論じてゐるし、愛國心のいかがはしさは「軍靴の音が聞える」らしい「左翼進歩派」が好んで論ずるものの、愛國心を持合せぬ「詐僞師、山師、人殺し」もゐるといふ儼然たる事實を左翼は認めようとしない。愛國心とナショナリズムについてはいづれ後述するが、先に述べたやうに、愛國心は持つてゐるのが當り前で、「詐僞師、山師、人殺しも有つて居る」程だから、持つてゐる事を殊更自慢するには及ばない。性的不能者を除き、性慾は誰でも持合せてゐるが、持合せてゐる事を自慢する程の馬鹿はゐない。然るに、「軍靴の音が聞える」らしい左の馬鹿が、永年、愛國心の危さを「喧傳」して善玉を氣取つたから、右の馬鹿は左の馬鹿を向きになつて批判して、自慢するに當らぬ事を自慢して、これまた善行をなしつつあるかのやうに錯覺した。「のらくろ上等兵」や「サザエさん」とは異なり、いづれ氣の滅入るやうな漫畫であつて、大江も西部も西尾も、所詮は漫畫家なのである。ベストセラー漫畫「戰爭論」の著者小林よしのりを辯護して西部はかう書いてゐる。

 『戰爭論』について云へば、その趣旨に私はほぼ全面的に贊成する。といふより私は、若いときから、その趣旨であの戰爭をとらへつづけてきたので、その漫畫本は私には(小林氏には失禮な言ひ方だが)思想的にはさして刺戟的ではなかつた。(中略)しかしそんなことを他人樣に向つていふ前に、私はまづ、一人の誠實な漫畫家に群れなして襲ひかかり惡態のかぎりを盡した知識人たちを、一玉づつ撃つておかなければならない。

 文章の添削は切りがないからもうやらないが、「若いときから、その趣旨で」云々は見え透いた嘘であり、幼稚園小學校時代は知らず、全共鬪時代の若き西部が大東亞戰爭を肯定的に「とらへ」てゐた筈は斷じて無い。清水幾太郎の「轉向」のまやかしと諄々しい辯解の嘘は嘗て福田恆存が剔抉したが、清水にせよ西部にせよ、なぜ轉向者は過去を疚しく思ふのか。疚しく思つてなぜ見え透いた嘘を吐くのか。政治と道徳とを腑分けしない知的怠惰のせゐである。先述したやうに、マルキシズムに行かれた事は若氣の至りの淺はかではあつても決して道徳的に恥づべき事ではない。批判する譯ではないから實名を擧げるが、嘗て私は林健太郎と同席した折、左傾した過去を疚しく思ふ事があるかと質した事がある。返事は簡單明瞭、「いいえ、一向に」であつた。天晴れだと私は思つた。ちと亂暴な云ひ方だが、マルキシズムは神拔きのキリスト教なのであつて、キリスト教が無ければ決して發生しなかつたイデオロギーである。カトリック教徒だつたグレアム・グリーンも嘗ては「左翼」であつた。だが、晩年の佳作「キホーテ神父」を讀めば、徒に共産主義即ち「赤」を恐れる事の知的怠惰を讀者は痛感するに相違無い。主人公のキホーテ神父は仲良しの市長と一緒に旅に出るが、市長は共産黨員であり、旅先で神父に是非これを讀めとて「共産黨宣言」を手渡す。讀んだ神父は感想を求められマルクスについて云ふ、「あの人は善い人だ」。

 成程、マルクスは「善い人」であり、スターリンは善き人マルクスの云はば鬼子に過ぎない。「惡靈」の作者ドストエフスキーならば、神拔きのキリスト教から當然出てくる鬼子だと云ふに相違無いが、生憎、我々は大昔から絶對者とは無縁で、絶對者と無縁だから神拔きのイデオロギーとも無縁であつた。開國後、將軍家と同樣一人の人間に過ぎない天皇を恰も絶對者であるかのやうに戴く事になつたが、さうせずには曲がりなりの近代化をも果たし得なかつた筈だから、取分け大逆事件以後、社會主義共産主義を惡魔の思想として危險視した事に何の不思議も無い。だが、再度の鎖國はたうてい不可能だつたから、西洋學問は次第に「神國思想」及び「敬神崇祖忠孝一致」なる虚構を浸蝕して、取分け敗戰後は社會主義共産主義が解禁せられたから、例へば「大日本者神國(おほやまとはかみのくに)也、天祖(あまつみおや)ハジメテ基(もとい)ヲヒラキ、日神(ひのかみ)ナガク統(とう)ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ」との「神皇正統記」冒頭の一節なんぞは誰も本氣で信じないやうになつた。それは不可避だが好ましい事ではない。好ましい事ではないが不可避である。森鴎外はさう考へて、明治四十五年、「かのやうに」と題する短編にかう書いた。すこしく長く引くから是非味讀して貰ひたい。味讀精讀して鴎外の深い思考をなぞるならば、西部邁や西尾幹二や大江健三郎の粗雜安直な思考に愛想が盡きる筈である。

3

 今の教育を受けて、神話と歴史とを一つにして考へてゐることは出來まい。(中略)學問に手を出せば、どんな淺い學問の爲方をしても、何かの端々で考へさせられる。そしてその考へる事は、神話を事實として見させては置かない。神話と歴史とをはつきり考へ分けると同時に、先祖その外の神靈の存在は疑問になつて來るのである。さうなつた前途には恐ろしい危險が横たはつてゐはすまいか。

 一體世間の人はこんな問題をどう考へてゐるだらう。昔の人が眞實だと思つてゐた、神靈の存在を、今の人が嘘だと思つてゐるのを、世間の人は當り前だとして、平氣でゐるのではあるまいか。隨つてあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になつてしまつてゐるのも、同じく當り前だとしてゐるのではあるかいか。又子供に神話を歴史として教へるのも、同じく當り前だとしてゐるのではあるまいか。(中略)自分は神靈の存在なんぞは少しも信仰せずに、唯俗に從つて、聊か復璽(いささかまたしか)り位の考で糊塗して遣つてゐるのではあるまいか。(中略)今神靈の存在を信ぜない世に殘つてゐる風俗が、いつまで現状を維持してゐようが、いつになつたら滅亡してしまはうが、そんな事には頓着しないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じてゐるらしく行つて、虚僞だと思つて疚しがりもせず、それを子供に教へて、子供の心理状態がどうならうと云ふことさへ考へても見ないのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多數は、こんな物ではないかと推察せられる。無論此多數の外に立つて、現今の頽勢を挽回しようとしてゐる人はある。さう云ふ人は、倅の謂ふ、單に神を信仰しろ,福音を信仰しろと云ふ類である。又それに雷同してゐる人はある。それは倅の謂ふ、眞似をしてゐる人である。これが頼みにならうか。更に反對の方面を見ると、信仰もなくしてしまひ、宗教の必要をも認めなくなつてしまつて、それを正直に告白してゐる人のあることも、或る種類の人の言論に徴して知ることが出來る。倅はさう云ふ人は危險思想家だと云つてゐるが、危險思想家を嗅ぎ出すことに骨を折つてゐる人も、こつちでは存外そこまでは氣が附いてゐないらしい。實際こつちでは、治安妨害とか、風俗壞亂とか云ふ名目の下に、そんな人を羅致した實例を見たことがない。併しかう云ふことを洗立をして見た所が、確とした結果を得ることはむづかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若しさうだと、その洗立をするのが、世間の無頓着よりは危險ではあるまいか。

初出