「女性關係、徴兵逃れ、マリファナ」など數々の不品行が暴かれたにも拘らず、クリントンの人氣は一向に衰へない、「正義、公正の米國」はどこへ消え失せたのか、我が日本國においては「スキャンダル、失政があるたびに選擧で與黨が議席を失ふ」が、してみれば日本のはうが「まだしも民主的」なのではあるまいかと、最近、産經新聞の或る特派員が書いた。洵に杜撰な言分であつて、政治家の不品行と民主主義との間に、土臺、何の關聯もありはしない。ヒトラーの率ゐるナチスは「民主的」な選擧の洗禮を受けて第一黨になつたのだし、ヒトラー自身も「不品行」とは無縁で、愛人ブラウンとの仲も「不適切」ではなかつた。が、誰もヒトラーの政治を「民主的」とは評すまい。それに、我國の場合、選擧の度に議席を減らしたのは自民黨であるよりも寧ろ社會黨だが、社會黨議員のスキャンダルはさして問題とされず、何せ無責任野黨だつたから「失政」とも無縁であつた。手を汚す機會も必要も少なかつたがゆゑに、その分、自民黨よりは清潔で、土井たか子なんぞは近附き難い程の清潔な處女、それが今は黨首だから、次の選擧で社民黨はさらに議席を減らすに相違無い。
さういふ次第で、政治家の不品行が議席減を招く事が「民主的」だなどと考へるのは頗る附きの知的怠惰なのである。「分る」とは「分つ」事だが、知的怠惰とは分けねばならぬ物を分けて考へない頭腦混濁の事で、不品行は道徳上の問題だが、民主的であるか否かは政治上の問題に過ぎず、政治と道徳とは分けて考へねばならぬといふ事を、産經の特派員は理解してゐなかつた。クリントンが彈劾され辭任する事になるのかどうか、先の事は解らないし、解りたいとも思はないが、要するにクリントンはへまをやつたに過ぎない。英雄は色を好むが、爲政者は有徳であると思はれてゐる事が大事なので、必ずしも有徳である必要は無い。それは、昔、マキャベリや荻生徂徠の云つた事で、元祿の儒者が知つてゐた事を平成の新聞記者が知らずにゐるのは、齋藤緑雨の云つたやうに「教育の普及は浮薄の普及」だからに他ならぬ。「民主的」な時代には、教育の「機會均等」が重視され、愚者にも生なかの教育が施され、かくて知的怠惰が蔓延るのである。
だが、私はここで政治と道徳の相剋について語らうとしてゐるのではない。教育を論ふ譯でもない。政治と道徳とを腑分けしない知的怠惰が怪しまれず、非論理的な惡文駄文が跋扈して、詰りは言葉が輕んぜられてゐるといふ嘆かはしい事實、その大事と呼ぶに値する唯一の大事を論はうと思つてゐる。人間は言葉を遣つて物を考へるのだから、政治、道徳、教育、國防、その他何を論じようと、言葉を精密に遣へない者には碌でもない事しか思ひ附けない。嘗てT・S・エリオットは、「文化」といふ言葉が曖昧に用ゐられてゐる事態を憂慮して「文化の定義に關する覺書」なる一本を物したが、言葉を正確に遣はうとする努力、或いは遣はせようとする努力が、我が日本國には著しく不足してをり、大事な言葉の正確な意味を知らうとしても字引が役立たないといふ事が屡々ある。役立たない事に苛立つて、エリオットの顰に倣ふ文人も學者もゐない。かくて「文化」とか「民主的」とかいふ大事な言葉が、何を意味するかを知らずに、或いは知つてゐる積りで、頗る安直かつ曖昧に遣はれる。
「廣辭苑」は民主主義を「人民が權力を所有し、權力を自ら行使する立場」と定義してゐる。が、この定義では民主主義の何たるかはたうてい理解出來ない。多數の「人民が權力を所有」するなどといふ事はあり得ないし、不特定多數が「自ら」事をなす事も無い。知的に怠惰ならざる日本人なら必ずさう考へる。私が所持する最も大部の國語辭典は「日本國語大辭典」だが、それには「政治の原理や形態についてだけでなく、社會集團の諸活動のあり方や人間の生活態度についてもいふ」と記されてゐる。産經の特派員は「民主的」といふ言葉を「社會集團の諸活動のあり方」もしくはクリントンの「生活態度について」用ゐた譯だが、それは誤用であつて、「オックスフォード英語辭典」にもさういふ定義は載つてゐない。「廣辭苑」よりも小型の「ロングマン現代英語辭典」も引いたが、そこには「選出された人民の代表による統治」と簡潔かつ適切に定義されてあつて、やはり「人間の生活態度について」も用ゐるなどとは記されてゐなかつた。辭書は須く「保守的」であるべきで、輕々に流行語や誤用を輯録すべきではない。嘘を吐いたり、親友を裏切つたり、若い女と「不適切な關係」に陷つたりするのは道徳的な問題であつて、それと民主主義なる政治的な問題との間には何の關係も無い。北朝鮮は民主主義國ではないが、孝子もゐれば女誑しもゐるに決つてゐる。
言葉が正確に用ゐられず、不正確な言葉遣ひが罷り通るといふ事、それだけが日本人たる者の眞に憂慮すべき大事だと私は思ふ。我々は毎日あちこちで惡文を讀まされる。賣文を生業にする手合も惡文を綴つて平氣でゐる。知的怠惰に左右の別は無いから、朝日新聞にも「赤旗」にも、時に「月曜評論」にも惡文が載る。先日、私は小森陽一なる學者の漱石論を通讀してその粗雜に呆れたが、次に引く小森の駄文の非論理的缺陷を、本紙の讀者の大半が指摘し得ないのではあるまいか。
この日午後六時半、在位六四年のヴィクトリア女王は死去し、産業革命後の大英帝國の榮光を象徴したヴィクトリア朝が終焉したのです。金之助にとつての「二十世紀」は、翌日黒手袋を買つた店の店員が言つたやうに、「ひどく不吉な始り方をした」(”The new century has opened rather inauspiciously.” 一月二三日「日記」)のです。
女王が死んだ翌日、金之助即ち夏目漱石は黒手袋を買ひに行つた。すると店員が二十世紀は「不吉な始り方をした」と云つた。後年、折ある毎に英國を罵つた漱石だが、この頃はまだ素直で、弔意を表すべく黒いネクタイなんぞを締めたりしたのだが、それは兎も角、二十世紀の始り方が「不吉」だつたのは英國人たる店員にとつてであつて日本人たる漱石にとつてではない。小森が「金之助にとつて」と書いたのは辯解の餘地の無い知的怠惰の證しだが、さういふ杜撰な言葉遣ひを隨所に見出せる駄本が三流出版社ならぬ筑摩書房から出る。それが、その事だけが、今の日本國にとつて憂慮すべき大事であり、それに較べれば、北朝鮮のミサイルが三陸沖に着彈したなどといふ事件も些事である。航空自衞隊が所持するペトリオットは飛來するテポドンを落せない。科學技術は進歩するから先の事は解らないが、元來ミサイルは飛行機を落す物でミサイルを落す物ではない。それゆゑ北朝鮮の奇襲攻撃を防ぐには、古びた「專守防衞」の看板を降して、ピョンヤンに報復爆撃を加へるだけの能力を航空自衞隊に與へるしかない。だが、知的怠惰と平和惚けの日本國に於いては、それを幾ら云はうと徒勞である。他國はすべて「力の均衡」による國防を當然の事と考へる。インドが核實驗をやればパキスタンもやる。知的怠惰の我國だけが希有の例外だが、半世紀以上も續いた例外は最早例外とは看做されない。
だが、ここで私が北朝鮮を罵つたり「平和惚け」を批判したりすれば、「月曜評論」の讀者は「我が意を得たり」とて喜ぶであらう。それは必ずしも喜ばしい事ではない。讀者を喜ばせる事が賣文の要諦だから、「産經」には「産經」の讀者を、「朝日」には「朝日」の讀者を、「月曜評論」には「月曜評論」の讀者を、それぞれ喜ばせる記事が載る。戰前は「大政翼贊」一色だつたが、その非「民主的」な過ちを繰返してはならないと、戰後、「民主的」な知識人は頻りに云つた。が、「世界」とか「朝日ジャーナル」とかいふ「民主的」な新聞雜誌には、「左翼」の讀者の意を迎へる記事許りが載つて、それは「右」もしくは「保守」の場合も全く同樣であつた。詰り、戰後も二種類の「大政翼贊」が存在した。「安保騷動」の頃、左右は血相變へて對立したが、いづれ皮相淺薄な對立だつたから、ソヴィエト聯邦の崩潰と同時に消滅し、社會黨は自民黨と野合して、今や「左翼」とか「革新」とか「進歩派」とか「保守反動」とかいふ言葉は死語になつた。「學生紛爭」當時、我が早稻田大學は革マルの根城で、今なほキャンパスに革マルの「立看」は存在するが、「一般學生」は見向きもしない。「革マル」も「一般學生」も今は死語である。年輩の讀者は覺えてゐよう、嘗て「黒猫のタンゴ」なる愚劣で奇妙な歌が流行した事がある。「革マル」や「一般學生」と同樣、「保守」といふ言葉もまた「黒猫のタンゴ」だつたのである。それは詰り、流行とは全く無縁の大事を大事と心得ぬ知的怠惰が半世紀續いた事の證しに他ならない。