初出
『正統とは何か』チェスタトン著作集(舊版) 第一卷 月報
『正統とは何か』チェスタトン著作集(舊版) 第一卷
G.K.チェスタトン著
福田恆存、安西徹雄 譯
春秋社刊
一二○○圓

羨ましき保守主義

 山村暮鳥といふ詩人がゐた。學生時代に、その暮鳥の、確か『土の精神』とかいふ詩集の初版本の序文を讀んで、頗る不愉快になつた事がある。貧乏しながら自分は詩作をつづけた、色々と惡事を犯した、萬引さへやつた、といふやうな事を暮鳥は書いてゐるのだが、當時の私にはなぜ不愉快な氣持になつたのかがよく解らなかつたし、また解らうと努力する事もしなかつた。が、今の私にははつきり解つてゐる。要するに暮鳥は謙虚であらうとして高慢に墮してゐたのである。萬引といふ破廉恥罪を告白できるほど自分は立派だといふ事が言ひたかつたのである。人間、謙虚になるのは至難の業である、おのれが謙虚になりえた事をたちまち誇りに思ひ始めるからだ。が、アウグスティヌスはこの至難の業を、至難の業であるとの意識も無しにやつてのけたのである。もちろん、神を信じてゐたからである。

 謙虚は美徳であり傲慢は惡徳である、などといふ事が私は言ひたいのではない。何が美徳で何が惡徳か、さういふ事が判然としない時代に我々は生きてゐる。謙虚が人を不快にするのなら、謙虚は惡徳で傲慢が美徳なのかもしれないではないか。そこで我々は、やむをえず、處世術として中庸を選ばうとする。が、これは眞の解決にはならない。例へば私は共産主義者を相手に雜談を樂しむ事ができる。しかし、謙虚になる事など到底できはしない。チェスタトンは書いてゐる。

 「異教の哲學は、美徳は平衡にあると主張した。キリスト教は、美徳は對立葛藤にあると主張した。(中略)たとへば、謙虚といふ問題を考へてみるがよい。單なる高慢と、單なる慴伏との平衡をどう取るか。普通の異教徒なら、かう答へたであらう。自分は自分自身に滿足してゐる。けれども傲慢な自己滿足に陷つてはゐない。(中略)かうして異教の解決は、誇り高くあることの詩も、ヘり下つてあることの詩も共に失ふことになる。だがキリスト教は、まづこの二つの觀念を分斷し、しかる後にその兩方を極端にまで押し進めた。ある意味では、人間はかつてためしのないほど誇りを高く持つぺきだつた。だが、またある意味では、人間はかつてためしのないほど身を低く持すべきだつた」

 チェスタトンの言ふとほりである。當節の文學は「誇り高くあることの詩も、ヘり下つてあることの詩も」失つてゐる。「幼兒だけが喜ぶ」やうなリアリズム小説も、「自分自身さへ例外として除外すれば、この世の一切は惡だと考へる」ペシミスティックな文學も、ともに人間である事の眞の苦しみを描いてはゐない、ましてや人間である事の喜びは描いてゐないのである。「トルストイの意志を凍結させてゐるのは、何らかの行動を起こすことはすぺて惡だといふ佛教的本能である。ニイチェの意志を同樣にまつたく凍結させてゐるのは、何らかの行動を起こすことはすぺて善だといふ彼の思想である。二人は(中略)要するに十字路で途方に暮れたのだ」

 チェスタトンの『正統とは何か』は彼の思想遍歴の記録である。が、チェスタトンはもちろんキリスト教徒である。したがつて彼の言ふ正統が何を意味するかは改めて言ふまでもないであらう。この世はともあれ魔法の世界であり、その魔法には何らかの意圖があり、その意圖は誰かの意圖に他ならず、その誰かは必ず存在する、といつたぐあひにチェスタトンは話を進めてゆく譯だが、彼の強烈な説得力によつて讀者はあるいはキリスト教に入信しかねまい。いかな天邪鬼も少なくとも一時キリスト教のシンパにはなるであらう。それはよい事であり、そしてそれがよい事であるならば、本書ほど見事なキリスト教入門書は滅多に無いと言つてもよい。

 だが、矛楯した事を言ふやうだが、本書を讀んで私は、正統思想に支へられた保守主義の逞しさを羨ましく思ふと同時に、正統とは何かについての一般的了解の無い我國における保守主義のありやう、あるいはその難しさについての日頃の信念は搖がなかつたのである。チェスタトンは書いてゐる。「あらゆる保守主義の基礎となつてゐる觀念は、物事は放つておけばそのままになつてゐるといふ考へかたである。ところがこれが誤りなのだ。物事を放つておけば、まるで奔流のやうな變化に巻きこまれるに決つてゐる。たとへば白い杭を放つておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいといふのなら、いつでも何度でも塗り變へてゐなければならない――いふことはつまり、いつでも革命をしてゐなければならぬといふことなのである」

 そのとほりである。だが、杭の色は白に限ると誰がきめるのか。また、いかなる根據にもとづいてきめるのか。チェスタトンにとつてはそれは自明の理である。が、我々にとつてはさうではない。日本の保守主義者は進歩主義者と民衆に諂ひ、白い杭を次第に赤に近づけようとしてゐる、もうずゐぶん桃色になつて來てゐる。そして白い杭を白いままに残さうとしてゐる者は頑迷固陋の右翼として憫笑されるだけの存在となつてゐるのである。

 但し誤解無きやうに願ひたい、私は右翼の思想を讚美したがつてゐるのではない。皇國史觀の正しさを無條件に認めてゐるのではない(かういふ事を改めて斷らなければならぬ事自體が頗る日本的であるが)。ただ、所謂進歩的文化人の如く安手のヒューマニズムに醉拂ひ、醉眼朦朧とした目付でチェスタトンを讀んでもらつては困る、といふ事が言ひたいのである。例へば、チェスタトンのニイチェ批判は痛烈であつて、私はもちろん同感である。が、同時に私はニイチェを支持する。つまり、ニイチェの毒氣にあてられた事のないキリスト教徒や進歩派を私は信用してゐないのだ。人はまづニイチェの、例へば『善惡の彼岸』を讀むべきである。が、それだけでは足りない、ニイチェの毒氣に充分あてられてから、チェスタトンを讀まねばならない。

 とまれ、本書を虚心に讀むならば、讀者は實に多くの事を教へられるにさうゐない。それまで自明の理と思込んでゐた事柄をさへ疑ふやうになるにさうゐない。それだけは確と請け合つておく。もちろん、譯文も頗る明快であり名文である。