制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-08-04
誤字修正
2016-11-17

『戰爭は無くならない』

内容紹介

道徳的觀點からなされた戰爭論。ラジオ日本(「松原正・世相を斬る」)で放送された「戰爭論」を元に書かれたもの。小林よしのりの粗雜な『戰爭論』とは違つて、本質的な戰爭論である。

政治主義から離れた戰爭論

松原氏の主張は「保守的」であるやうに屡々誤解されるが、寧ろ「革新的」で「進歩的」である事を、讀者は理解すべきである。そして、所謂「進歩主義」が却つて進歩に對する反動である事實を理解すべきである。

未來永劫人間は決して戰爭を止めはしない。なぜなら、戰爭がやれなくなれば、その時人間は人間でなくなる筈だからである。では、人間をして人間たらしめてゐるものとは何か。「正義とは何か」と常に問はざるを得ず、己れが正義と信ずるものの爲に損得を忘れて不正義と戰ひたがるといふ習性である。即ち、動物は繩張を守る爲に戰ふに過ぎないが、人間は自國を守る爲に戰ふと同時に、その戰ひが正義の戰ひであるかどうかを常に氣に懸けずにはゐられない。これこそ動物と人間との決定的な相違點なのである。(中略)動物と同樣、人間も繩張を守るべく戰ふが、動物と異なり、正邪善惡を氣にせずにはゐられないから、不義の敵を殺す事になる。それゆゑ、人間がいかなる場合にも戰爭をやらぬといふ事になつたら、その時、人間は正邪善惡の別を全く氣に懸けぬ動物に墮してゐる筈である。

人間と動物が異るものであるならば、當然兩者を同一視しようとする事は誤りであり、兩者を一致せしめる行爲も誤りである。人間は動物のしない事をするから人間である。そして、動物の決してしない事は、自分の行爲を正當化する事である。「戰爭はいかなる方法によつても正當化出來ない」と云ふ平和主義者の主張は、「人間は何をするにも己の行爲を正當化せずにはゐられない」と云ふ認識によつて根本から否定される。

斯る認識に基いて人間の進歩すべき方向を考へれば、當然「戰爭は無くならない」し、なくすべきではないと云ふ結論に歸着する。人間の進歩を否定して初めて「戰爭は無くすべきだ」と云ふ結論が下せるのだ、と云ふ事實を、平和主義者は認めるべきである。

人物評

森嶋通夫について

……「政治倫理」などといふ譯の解らぬ言葉を弄ぶ場合と同樣、防衞を論ずる場合も、吾國の知識人は道徳の問題を素通りする。森嶋通夫氏がさうであつた。昭和54年7月、『文藝春秋』に載つた森嶋氏の論文のうち、「道徳、及び人間の生き方の本質に觸れた殆ど唯一の部分」は、「萬が一にもソ聯が攻めて來た時には自衞隊は毅然として、秩序整然と降伏するより他ない。徹底抗戰して玉碎して、その後に猛り狂つたソ聯軍が殺到して慘憺たる戰後を迎へるより、秩序ある威嚴に滿ちた降伏をして、その代り政治的自決權を獲得する方が、ずつと賢明だと私は考へる」といふくだりであつた。「威嚴に滿ちた降伏」をしておいて「政治的自決權」を強請らうなどとは何とも蟲のよい話だが、それはともかく森嶋氏は、「抵抗しなかつたのだから自決權をよこせ」との交渉もまた「威嚴に滿ちた」ものでありうると考へてゐる譯である。何たる人間性に關する無知であらうか。強者に屈服して後、弱者がもし威嚴を保持しうるとすれば、「四人組裁判」における張春橋氏のごとく、頑なに強者の慈悲を求めぬ時だけである。

ところで、この森嶋氏の淺薄を批判して、福田恆存氏はかう書いた。

私が「當用憲法論」を書いてからもう14年になる。その中で觸れておいた事だが、ポツダム宣言の無條件降伏はその條文から推して、明かに日本の軍隊に對するものであつて、日本國政府、國民一般に對するものではない。まして、國際法に反する占領中の憲法強要、教育制度の改革、文字遣ひや文化、慣習に對する容喙、その他、瑣末な事のやうに見えながら、實は日本人の心情を支へてゐた諸々の仕來りやそれに基く自信と誇りの破壞、等々、何も彼も無條件に受容れる事を意味してはゐない。(中略)しかし、何より困るのは、この明かに有條件降伏以外の何物でもあり得ないポツダム宣言を無條件降伏として受取り、結果としてはすべて無抵抗に許諾してしまつた輕薄な態度が、それから30年經つた今日に至つて、当時の昏迷を「後世に誇るに足る、品位ある見事な降伏」と見做し、それをなし得た「國民であつたからこそ」今日の繁榮を築き得たと、現代の日本の在り方を何の疑ひもなしに肯定する輕薄な(森嶋氏の樣な)人間を産み落としたのだといふ事である。

こつ酷く福田氏に遣つ附けられ森嶋氏は反論出來なかつた。つまり森嶋氏は降服したのである。しかしながら、「威厳に滿ちた降伏」とやらはやらなかつた。即ち、その後『文藝春秋』の隨筆欄に寄稿して福田譯シェイクスピアにけちをつけるといふ、何とも吝嗇臭い根性を丸出しにした。これを要するに「現代の日本の在り方を何の疑ひもなしに肯定する輕薄な人間」にも、何とかしておのが「威嚴」を保持せんとする欲望だけは確實にあつたといふ事に他ならない。つまり、森嶋氏の樣な一寸の蟲にも五分の魂はあつたのであり、それゆゑ戰爭の無くなる事は無いのである。

だが、福田譯シェイクスピアにけちをつけてゐる時、森嶋氏はおのれの吝嗇臭い根性には氣附いてゐない。

小室直樹について

「知的怠惰は道義的怠惰」だと私はこれまで屡々書いた事がある。防衞論に限らず、吾國の言論人の多くは知的に怠惰であるか、さもなくば知的に不誠實であつて讀者の神經を逆撫でするやうな眞實や、樣々の理由により觸れる事が憚られる眞實を素通りするが、さういふいはば「不快にして危險な眞實」の殆どが道徳に係る物だから、それを素通りする知的怠惰は即ち道義的怠惰に他ならない。或る道徳上の重要な問題について徹底的に考へてゆけば、必ず解決し樣の無い矛盾に突當るのであり、それゆゑ例へばシェイクスピアの『リチャード2世』の觀客は、幕切れのボリングブルックのせりふ、「毒を必要とする者も毒を愛しはせぬ」に衝撃を受けるのだが、このモラトリア惚けの日本國では、解決無き事を解決あるかのごとく思ふ極樂とんぼが飛び廻り、國防に關する空疎なシナリオばかりが罷り通るのである。

言ふまでもなく、戰爭とは戰時に人を殺す事であり、人を殺す事は道徳上の問題である。しかるに、第1章で指摘した樣に、「反戰平和」を唱へる極樂とんぼを批判する保守派の論客でさへ、及び腰に難癖を附けるしか無い譯だが、それも畢竟、人を殺す事はなぜ惡いかと、徹底的に問うてみた事の無い知的怠惰のせゐに他ならぬ。ここで第5章に引いたベルジャエフの文章を再び引く事にしよう。

「殘酷であつてはならない」と命じる掟は、われわれが一つの價値をえらんで他の價値を捨てるにはどうしても「殘酷にならざるをえない」といふことに氣づいてゐないのである。また「殺してはいけない」と命じる掟は、この世から殺人をなくすために、また人類にとつてもつとも價値あるものを守るためにあへて人を殺さなければならない場合があることを知らないのである。

もとよりベルジャエフの言ふ「掟」は絶對者の定めた掟であつて、さういふ絶對的な掟を、吾々日本人は持合せてゐない。けれども、「この世から殺人をなくすために、あへて人を殺さなければならない場合がある」といふ事を、誰が否定できようか。そしてそれを誰も否定できぬと知れば、「反戰平和」の戲言なんぞの出る幕は無くなる筈なのだが、知的に怠惰で不誠實な吾國の反戰平和主義者は、ベルジャエフが指摘してゐる樣な道徳的難問を囘避して、專らたわいのない泰平樂に興ずるばかりなのである。

私は今、道徳的「難問」と書いた。なぜならベルジャエフは斷じて、無條件に殺人を認めてゐる譯ではないからだ。それゆゑ、ベルジャエフがもし、次に引く小室直樹氏の文章を讀んだなら、小室氏の文章の粗雜と忌はしい沒道徳に唖然とするに違ひ無い。

私はかつて、テレビの生番組で「檢事を殺せ」と發言して、囂々の非難をあびたが、私の眞意は、次の點にあつた。(中略)

角榮は現代日本の政治家としてかけがへがない。その理由については、すでに述べた。他方、日本の檢察廳は、ある意味ではその優秀なこと世界に冠たるものがあり、人材雲のごとく、優秀な檢事の1ダース、1グロスぐらゐ殺したところで、かけがへはいくらでもある。だから、檢事ぐらゐ殺したつて、かけがへのない角榮を助けろと、この論理である。

「優秀な檢事の1ダース』は愚か、「愚かな檢事」一人だつて殺してはならぬのである。なぜなら例へば、畸人である小室直樹氏を「殺したところで、かけがへはいくらでもある」とは斷じて言切れぬからだ。そしてそれなら、「優秀な檢事の1ダース、1グロス」よりも、一人の田中角榮のはうが大事だなどと、吾々は斷じて言つてはならないのである。無論、吾々は私的な場所では飛び切り猥褻な事も言ひ、「あんな奴は殺してしまふがいい」などと言ひもする。だが、吾々はさういふ事を公的な場所で口走る事を躊躇する。なぜ躊躇するか。敢へて人を殺さねばならぬ場合のある事を承知してはゐても、人を殺してよい理由が確と掴めぬからに他ならない。ただ吾々は、例へばアルベール・カミュほど、それが確と掴めぬ不思議について熟と考へてみないだけの事なのだ。フィリップ・ソディは書いてゐる。

カミュは反抗の問題について、カリアエフの解決だけを有益かつ唯一の方法であると認めるが、その解決方法とはつまり、殺人者は自分の奪つた生命の代償として、自らの生命を支拂はなければならないといふものである。かくしてカリアエフは二つの行爲によつて、殺人が犯すべからざるものであると同時に、犯さざるをえないものであることを示し、そして、反抗が持つ「諾と非とのあひだ」のほとんど不可能にちかい緊張を例證することになる。

ソディも言つてゐる樣に、「虐政に對して鬪ふいかなる政治組織も、もしその指導者たちがカリアエフの例に從つたとしたら、おそらくその成功を勝ちとることはできない」。それゆゑ、カリアエフの解決だけが「有益かつ唯一の方法」であるといふ事にはならぬ。だが、『正義の人々』を書いたカミュが、殺人に關する「諾と非とのあひだの緊張」を體驗した事は確實であり、一方、「檢事ぐらゐ殺したつて」云々と書いた時の小室直樹氏が、さういふ緊張を體驗してゐない事もまた確實である。つまり、小室氏の場合も、その知的怠惰ゆゑの道義的怠惰といふ事であり、「或る道徳上の重要な問題について徹底的に考へ」なかつたから、「諾と非」の兩極に觸れて考へず、「解決し樣の無い矛盾に突當たる」事が無かつたと、さういふ事に他ならない。

清水幾太郎について

無論、さういふ怠惰は小室氏に限らぬ。清水幾太郎氏もまた、「日本よ國家たれ」と叫び、「無氣味な兵器や死を覺悟した人間、要するに、軍事力が、國家といふものの本質である」と書いたのである。さう書いた清水氏を批判して福田恆存氏は、「これほど人間性を無視した殘酷な考へ方は一體どこから出て來るのであらう」と書いたが、小室氏の場合も清水氏の場合も、その所論には「諾と非の兩極に觸れる」緊張、即ちディアレクティックが缺けてゐる。ここで再び、知的誠實を宗としたジョージ・オーウェルの文章を引くことにするが、彼はオーデンの詩を批判してかう書いてゐる。

殺人をたかだか言葉として知つてゐるに過ぎぬものだけが、こんな文章を書けるのである。私はかうも輕々しく殺人について語らない。偶々、私はたくさんの死體を見た事がある。(中略)恐怖、憎惡、泣き喚く親族、檢死解剖、血、惡臭。私にとつて、殺人は避けるべきものである。普通の人間にとつて殺人とはさういふものだ。(中略)引金が引かれる時は、常にどこか別の所にゐるやうな人間だけが、オーデン氏の樣に非道徳的な思想を抱きうるのである。

要するに、清水幾太郎氏は今、「引金が引かれる時、常にどこか別の所にゐる樣な人間」として、國家の物理的強制力を説き、大向うを唸らせようとしてゐる譯だが、「國家といふものを煎じつめれば、軍事力になり、軍事力としての人間は、忠誠心といふ人間性に徹した存在でなければならぬ」などと勇ましい啖呵を切つてゐる時の清水氏は、「内灘と限らず、他の幾つかの基地の實情」報告に涙したといふ「センチメンタル」な30年前のおのれを、きれいさつぱり忘れてゐるのであつて、30年前の清水氏の涙が空涙なら、今の啖呵も所詮は空威張りでしかない。「忠誠心といふ人間性に徹」する事なんぞ出來もせぬ癖に、「軍事力としての人間」とやらについて「輕々しく」語れるゆゑんである。

だが、殺人について「輕々しく」語るオーデンの「非道徳」に反撥したオーウェルは、「非戰鬪員に對する爆撃」を難ずるヴェラ・ブリテンを批判してかう書きもしたのであつた。

若者の殺戮に限定されれば戰爭は「人道的」になり、老人まで殺されるやうになれば「野蠻」になるとは、私は思はない。戰爭を「制限」するための國際協定は、それを破棄して引合ふ時には決して守られる事が無い。(中略)戰爭とは野蠻なものなのである。それを認めたはうがよい。吾々自身が野蠻人であるといふ事を認めれば、多少の向上が可能である。少くとも向上について考へる事が出來る樣になる。

「殺人とは避けるべきもの」であると言ふオーウェルに、「反戰平和」主義者も30年前の清水氏も同意するであらう。が、右に引いたオーウェルの文章には、今の清水氏と保守派の知識人が同意するに違ひ無い。奇怪な事だ、いづれもジョージ・オーウェルといふ名の同一人物が書いた文章ではないか。では、ヴェラ・ブリテンを批判して「戰爭とは野蠻なもの」であると書いた時のオーウェルは、オーデンを批判して「殺人とは避けるべきものである」と書いた時のおのれ自身をきれいさつぱり忘れてゐるのであらうか。斷じてさうではない。オーウェルは清水幾太郎ではない。いづれの文章を綴つた時も、彼は物書きとしての知的誠實を重んじ、「諾と非のあひだの緊張」を失つてはゐない。彼の二つの文章が矛盾してゐるやうに見えるとすれば、それは道徳上の難問に安直な解決が無いからに他ならぬ。

しかるに、清水氏に限らず、吾國の物書きの殆どは、防衞を論じてさういふ道徳上の難問に突當る事が無い。その安直に苛立つて、私はかつてかう書いた。

誰でも私としては死にたくない、けれども公の爲には死なねばならぬ。けれども、せめて一家眷属の爲ならばともかく、自由だの國體だのの爲に死ぬ氣にはなれぬ。けれども、神風特攻隊の若者は「天皇陛下萬歳」を叫んで死んだではないか。けれども、あれは若氣の至り、神憑りゆゑの輕はずみに過ぎぬ。けれども、乃木希典が腹を切つた時……、この「けれども」の堂々巡りに決着はつくまい。そこで、專ら能率と實用を重んずる手合は「死にたくない」と「死なねばならぬ」との對立の平衡をとる事をやめ、おのれの屬する集團の正義に飛び附く事になる。死にたくないと公言するのは、さすがに憚られるからである。そしてさうなれば、おのが集團とそれに對立する集團との勢力均衡を案じ、世間の左傾や右傾を嘆く事を生甲斐とし、それを道徳的善事と錯覺するやうになる。

自民黨員も共産黨員も、皆、「死にたくない」と思つてゐる。が、いづれの黨派に屬したところで、人間はいづれは必ず「死なねばならぬ」。そしてまた、ソ聯兵による殺人は認められるが、日本兵によるそれは許されぬといふ事も無い。が、日本とソ聯が戰ふ事になれば、日本兵はソ聯兵を殺さねばならぬのである。「道義不在の防衞論を糾す」(『道義不在の時代』所收)にも書いた通り、パスカルは「殺人が時と場合によつて許されたり許されなかつたりする不思議について熟と考へ」たのだが、それはオーウェルと同樣、パスカルが知的誠實を重んじたからに他ならない。オーウェルが繰返し言つてゐる樣に、黨派心は知的誠實の敵なのである。

それゆゑ、私もここで知的誠實を重んじ、敢へて誤解を招く樣な事を言ふが、私は正直、例へば朝日新聞の左傾に屡々立腹すると同時に、朝日の左傾を嘆いて原稿用紙の升目を埋めてゐるだけの言論の安直にも屡々苛立つのである。朝日新聞の左傾を嘆く事は、そのまま道徳的善事なのではない。即ち、道徳的にいかがはしい人物であつても、對立するイデオロギーを批判しうるのであつて、これを要するに、イデオロギーと道徳とは簡單に繋がらないのである。日本の共産化は斷乎阻止せねばならぬと私は思ふし、阻止せんとする眞摯においても人後に落ちない。けれども、萬一、日本が共産主義國になつたとしても、道徳的な惡事はやはり惡事なのであり、共産主義國になつたからとて、親を殺したり、嘘をついたり、友人を裏切つたりする事が善事になる譯のものではない。それはつまり、イデオロギーよりも道徳のはうが大事といふ事で、また、さう考へなくては、共産化された祖國日本に自由を恢復せんとするゲリラ活動も、眞摯なものとは到底なりえないであらう。

ところで、讀者がもし知的に誠實であるならば、以上私が鏤々述べた事の大半を認めざるをえない筈だと私は信ずる。が、もしさうなら、讀者諸君よ、あなた方はなぜ、清水幾太郎氏のアジテイションなんぞに幻惑されるのか。なぜ清水氏の知的・道義的不誠實に慄然としないのか。福田恆存氏は清水氏の防衞論を「破綻に滿ちた支離滅裂」と評し、返す刀で、清水氏の「變節」を辯護した渡部昇一氏を斬り、「あなたの正體は共産主義者と同じで、人間の不幸はすべて金で解決出來ると一途に思詰めてゐる夜郎自大の成上り者に過ぎぬ」とまで言切つた。けれども、清水氏も渡部氏も福田氏に反論せず、反論せぬといふ處世術によつて今なほ兩氏は健在だが、一方の福田氏は清水氏に對する「嫉妬心から文句を附けたと勘違ひ」され、「それは違ふ」と『中央公論』に書いて、けれども大方の物書きやジャーナリストに理解される事が無かつた。

これを要するに、このモラトリアム惚けの日本國では、知的誠實はまこと割に合はぬのである。いや、ことによると、知的怠惰と知的不誠實は、日本人の專賣特許なのかも知れぬ。……