皆さん、さやうなら

 洵に好運な歳月を過せたものだとつくづく思ふ。まづ、英文學に關する所謂「業績」は、教授に昇進して後は殆ど作らず、クーデターをやつて退けた韓國の全斗喚少將や我が自衞隊のために辯じ、あちこちの陸海空自衞隊の基地で講演をやり、保守派知識人を撫で斬りにして「人斬り以藏」と呼ばれ、保守派論壇からは村八分にされたものの、大學には首を切られず、「保守反動」といふ事で肩身の狹い思ひもしなかつた。おまけに教授會には大學紛爭が解決して以來毎度缺席して、昨今は英文科の會議すらさぼるやうになつた。殊勝な事と云へばただ一つ、滅多に休講しなかつた事である。教授會は缺席したが、その代り大學の金で國外に留學する事も無かつた。

 それで學生には何を教へたか。我々日本人に英文學なんぞたうてい理解出來ないゆゑんを教へた。英文學なんぞ理解しなくてよいと説いた譯ではない。理解出來ないが理解しようと努めねばならぬゆゑんを説いた。英文學に限らず、我々日本人は、未來永劫、歐米文化を理解すべく虚しい努力を續けなければならない。漱石の言葉を借りれば「上滑りに滑つて」行かなければならない。

 然るに昨今、さういふ「上滑り」の自覺がとみに薄れ、皮相淺薄なナショナリズムが擡頭する兆しも見えるやうになつた。漫畫家の書いた戰爭肯定論がベストセラーになり、ドイツ文學をやつた學者が愛國的な「國民の歴史」を書いた。所謂「進歩派」は眉を顰め、ヘつぴり腰の異義を申立ててゐるが、何の驗もありはしない。我々は拜外主義と排外主義とを交互に安直に藝も無く繰返す。云はば流行であり、そろそろ排外主義の出番になつたのかも知れぬ。「進歩派」とて日本人だから流行には弱くて大勢抗すべくもないと思つてゐる。數年前、佛文の岩瀬孝教授が定年退職の挨拶をして「我々は大學紛爭當時の事を忘れるべきでない」と述べ、私は感動したが、忘れるべきでないのは寧ろ紛爭が解決して後の「進歩派・鳩派」のけろりかんである。西洋に學んだ進歩的な學問も所詮附け燒刃だつた。附け燒刃だつたからこそ挫折してけろりかんだつた。

 「これからの學者は二本足で立たねばならぬ、一本は日本に他の一本は西洋に」と、昔、森鴎外は云つた。鴎外は大量の飜譯を遺してゐるが、同時に漢學の素養も尋常ではなかつた。以前、演劇博物館で坪内逍遙の毛筆で書かれた講義ノートを見て驚嘆した事がある。毛筆に驚いたのではない。當時最新刊だつた筈の文獻を讀んでゐる事に驚いたのである。逍遙も鴎外もよく洋書を讀んだ。漱石は飜譯を殆どやらなかつたが、英國を蛇蝎のやうに嫌ひながらも英書はよく讀んでゐる。弟子の小宮にドイツ語を習つてゐる。鴎外は「二本足」で立つ苦しさに堪へた。漱石は堪へ兼ねて、時々、氣が狂はんぱかりになつた。ロシア語に堪能だつた二葉亭四迷は文學に絶望して政治に期待して虚しくベンガル灣上に客死した。さういふ先人達の苦惱を今人はすつかり忘れてけろりかんなのである。

 だが、野暮な話はやめよう。威勢のよい排外主義ゆゑにこの國がまたぞろ亡びる事があるとしても、その時に私はこの世にゐない。私は今早稻田大學を去るが、次に去るのはこの世である。眞摯な眼差しで私の講義に耳を傾けてくれる學生達と、一匹狼だつた私に頗る寛大だつた紳士的な同僚と別れるのは寂しいが、死ぬる時にはもつと寂しいに違ひ無い。自衞隊の聯隊長や師團長は退官後は部隊を訪れない。それは美風である。私も據ない用事でも無い限り文學部を訪れないであらう。

 同僚の皆さん、さやうなら。