1998年に松原先生の授業を聽講した早稻田大學の學生の日記から、松原先生の授業に關する記事を抄出。
4限「イギリス小説」松原正先生。科目登録情報誌通りに松原先生は保守であらせられます。
「私は夏目漱石の本を書いてるが、小さい出版社からしか出ていない。それは私が保守を切ってきたがために、大きい出版社に圧力がかかっているからだ」
「革新というのは”親ソ”という意味で、そういうすぐに主張を変えたりする輩に私は『保守反動』と呼ばれてきたが、今の保守とは”親米”という意味であり、そういう意味でも私は保守を切ってきた」
「国際情勢というのは常に変わるものであり、常に親米というのはどうかと思う。そして、そういう親米の保守論陣の某君がソ連解体の時に『ほらみろ、やっぱり解体した。保守の勝利である』などとぬかしていたが、何もしていないのにそう言うのは一体どういうつもりだろうか。恥ずかしい。ソ連はアメリカとの軍拡競争に負けただけで、それが破綻を招いたのだ」
まあ、そんな感じで”保守論壇からも干されている”(科目登録情報誌による)のもしようがないといったところか。
ぺちゃくちゃ喋っている女のコを立たせたりするのもなぁ。確かに喋っているのはアレだが、なんか気まずいよな、こういう時って。。
「私は早稲田の教授のなかで、学部時代に一番成績が悪かったのではないかと思う。だから、諸君の成績は厳しくする。姑にいびられている嫁自身が姑になった時に、はたして嫁に優しくすることができるだろうか?それと同じで、私は諸君らに厳しくあたる」・・・いや、その反動で優しくなるという可能性もあるのではないでしょうか・・・ヤンキーをやっていた人が真人間になっちゃうようにさぁ。福田つね在(漢字が出ないよう)の門下生というのは、みんなこんな感じなのかしら?
4限「イギリス小説」松原正先生。自衛隊掃海艇の功績に絡めての海部元首相への悪口。あ、そういえば先週書いてないかもしれないので書きますが、こんなこともおっしゃってました。「早稲田大学が凋落した凋落したと世間では騒いでいるが、日本全体が凋落しているのだ。早稲田だけの問題ではなく、どこでも凋落しているのだ」・・・本当ですか?
4限「イギリス小説」。松原先生。面白いなぁ。今日はハムレットから読み取ることのできる、justiceということについて。フォークランド紛争の話からそこにつなげたのだが、その時に「私の予想は外れない」と断言された。何でも、フォークランド紛争の時に慶應の国際政治学専攻の教授が東京新聞の取材に「あれは示威行為であって、デモンストレーションに過ぎないから戦争は起きないでしょう。あんな羊しか飼えないような土地はいらないでしょうから」と答えていたのに対して、関東ラジオ(?)か何かで「いや、絶対戦争は起きる。それはサッチャーが何度も強調して使う”justice”という言葉からもわかる」と真っ向から反論し、実際に戦争は起きたということがあったらしい。凄いね。・・・ちなみにフォークランド紛争について知らない人達が結構いたのだが、それっていいのかなぁ・・・。
justice・・・正義。たけむら正義ではないですが・・・。日本と違って、イギリスやアメリカでは正義がかなりのウェイトを占めるようですね、マジで。恋人やお金とは関係なしに、正義が一番にくるらしいですね。
まあ、でも、言わせてもらえば、僕もかなり稲門会という組織では個を埋没させて、組織を優先させている(つもりな)ので、ある意味justiceと重なる気もしないわけではない。しかし、そのjusticeも人によっては、受け方が違うからなぁ。
4限「イギリス小説」。松原先生。ボルテールの言葉、「人間は美徳の悪徳のheavy mixture」。制度の問題。
何故に制度は必要か?−人間は不完全だから。しかし、その制度も不完全な人間が作っている。だから、抜け道があるので、その不完全を直そうとするが・・・。キリスト教的見地から言うと、神は万能であるからその教えに従えばいいということになる。ボルテールは人間の知性に悪循環打破を期待し、そのために必要なのは啓蒙であるとした。
しかし、すこぶる民主的憲法であったワイマール憲法の下で、ヒトラーが出てきた。ヒトラーは合法的に選挙で出てきたわけで、それはワイマール憲法や議会制度すなわち民主主義の挫折であると。ヒトラーは800万のユダヤ人を殺した。
ロバート・オーウェンは「制度が変われば人間は変わる」を信念に、自分のやれる範囲でお金を出して理想的な綿工場を作る。これは美しい人間の理想・世界として必然であるという考えの原始社会主義に通じるが、この社会主義からスターリンが出てくる。そして、そのスターリンは3000万の同胞を粛正した。
ポル・ポトや毛沢東も共産党的正義感から人を殺した。これらが何を言おうとしているのか。
人間に正義感さえなければズボラで上手くやっていけるということ。人間は天使になろうとして、悪魔になるということ。僕もそんなことをしている。
そこでインドとパキスタンの核実験に触れて、核を開発してもヒロシマ・ナガサキ以来5大国は遣っていないということ。発明したものを使えないというのは人間の本性に反しているのではないか、ということもおっしゃってた。
更に小林秀雄の話に飛ぶ。戦時中軍部に加担したとして、平野兼ら数人に吊し上げられるような形の座談会に参加した時、小林は自分を馬鹿だから反省しないと言い、平野らのお利口組に「貴方達は頭が良いのだから」と反省を求めた。座談会終了の際に、平野は「小林さんはお忙しいから、また今度お暇な時にでも場を持ちましょう」と言ったが、小林は「僕はいつも暇なので、いつでも相手しますよ」と余裕を見せたという。
スタイナーが来日した時、慶應の記念館か何かで江藤淳と対談をしたらしいが、そのことについても。スタイナーが「日本は平和主義だが、人間の文化はどれほどの期間戦争の無いのを持続できたか。今度の戦争は(核戦争の可能性が強いので)滅亡につながるが、しかし一方で(戦争が起きてないという)アンニュイ(退屈)があります」と言い、江藤に日本人としての意見を求めたらしいが、江藤は一瞬驚いた表情を見せて、すぐに話を変えてしまったそうだ。ここで松原先生は、戦争肯定ととらえられる恐れのある知識人の意見が初めて日本のテレビ(NHK)でしかも外国人から発せられたことにガッカリし、同時に話をそらした江藤にもガッカリしたそうだ。ちなみに、話をそらされた時のスタイナーの表情はガッカリしたものだったらしい。
結局、これは日本の知識人による西洋学問の無駄の露呈であり、欧米と日本の知識人の埋めようのないギャップであると。
そして、その後、海外の知識人の日本に対する考えを聞くという企画で、スタイナーに日本への提言を求めたが、「今のところ、私は日本に関して何も申し上げることはありません」と返されたという話も。江藤=日本の知識人と捉えたからの当然の結果と。
以上、授業ノートから。
授業中に資本主義社会においての不公平についても触れて、頭の良い同級生がいるとして、その同級生の親は幼い時期に死んでしまって、その同級生は自分よりも良い大学に入ることができたのに、大学へ行かずに働き、それでも借金のせいでその妹が女郎部屋に売られてしまうという、そういう仮定の話をし、それで君達は何も思わないのか、思わないのならこの授業は受けなくていい、自分のことさえ良ければいいという奴は帰ってくれ、なんてこともおっしゃってました。
それでその話の間に前の方で寝てる女のコがいたので、注意されるんですが、その注意の仕方がやばい。「お前みたいな奴は売春婦にでもなりやがれ」「早く歌舞伎町へ行け」「お前みたいな奴は、結婚してつがいになっても、そうやって生きていくんだろ」と、さすがにそれはまずいだろう、セクハラとは言わないがやばくない?っていう感じでした。まあ、寝てるのですから、その女のコに何も反論はできないんですけどね。
松原先生の授業は大学における大部分の授業と違って、時が経つのが非常に早く感じられる。しかも、ノートのとりがいがある。ただ喋られるだけでも、ノートは2ページ分余裕で埋まる。
4限「イギリス小説」。松原先生。今日もスタイナーの話。エリオット『文化の定義のための覚書』に対しての、スタイナー『青髭の城において −文化の再定義のための覚書−』について。
単純にエリオットの覚書は名著なのだが、スタイナーは魅力に乏しいとした。それは何故か。第二次大戦が終ってすぐに覚書は出たにもかかわらず、キリスト教的見地をくどくどと説明し、ユダヤ人の虐殺については触れていないから。すなわち、大虐殺や死の収容所に距離的・時間的に近い場所で芸術や知的探求の学問が隆盛を極めていて、その近さの構造が重要であるから。
文学的・芸術的感受性(後期ベートーベンの作品を受容する姿勢)と(ナチスドイツの)残虐性が同じ民族に存在したということから、優れた芸術を受容していれば素晴らしい人間になるということは否定される。人間は人間だけでやっていける、すなわち、教養という啓蒙が良い人間を作るということを、第二次大戦は露骨に否定したということ。
スタイナーのヒトラーを題材に持ってきた小説『サンクリストバルへの移送』(タイトル間違ってるかも・・・)についても。評論では一流のスタイナーだが、小説は説明的で面白くないということで、クリストファー・ハンプトンによる脚本に沿って。小説でも劇でも、最後にヒトラーは英語で大演説をするのだが、結局誰も反論できないまま終ってしまう。これは単純な見方をすると、スタイナーはヒトラー弁護の輩なのではないかということになるが、スタイナーの両親はユダヤ人であり、スタイナーもそのことでアメリカに亡命している。では、このヒトラーの演説が反論されないまま終るということの意味は何なのか。
「ああいうキチガイもたまには出るさ」と納得しきっている大衆に対する警告、すなわち「お前らの心のなかにもヒトラーはいるんだ」ということを強調したかったから。
そこで、戦後50年の間ヒトラーを弁護した日本人がいるか?という話になり、最近上映された東条英機についても。最近になって東条英機を弁護する意見を発表できるようになったのが、日本の馬鹿の象徴だと先生はおっしゃる。東条は善人か悪人かということに関しても、東条を善人であるとし、理由として日本人はみんなケチ臭いから善人なんだとおっしゃった。そうかもなぁ。
この劇はイギリスでは受けなくて、あの一次は占領下にあったフランスでは拍手喝采のオオウケだったらしい。あと、寄り道として、夏目漱石の『行人』との比較、東条が出てきた関係で「日本人は天孫降臨民族ではなく天候観測民族である」という大宅荘一(ああ、正しい漢字がわからない、これでいいんだっけ?)の言葉も出してた。
今日は誰も怒られなくて非常にいい感じでしたが、授業の最初のほうはテンションが低すぎるような気がしてなりません。
4限「イギリス小説」。松原先生。今日は出席をとる。話は先週に引き続き、スタイナー『サンクリストバルへのヒトラーの移送』(先週書いたタイトルは間違ってました。ごめん)について。スタイナーはギデオンを使って自分の意見を言わせている。「ユダヤ人には二種類しかいない。死んだユダヤ人と頭の少しおかしいユダヤ人の二種類だ」
ユダヤ人の手によって捕まり、死刑にされれば世界中は一件落着するが、ギデオン(すなわちスタイナーの意見)はそれを困ることとする。何故ならば、世界中の人々の内にヒトラーがいて、これで終わりと認識させてしまい、歴史に線を引いて忘れさせてしまい、全世界が無罪放免となってしまうからである。
場面は変わってドイツの大学教授の家。大学教授はマーラーの交響曲第二番の最終楽章を娘アンナと一緒に聴いている。合唱に入る直前でLPを裏返しながら、教授はアンナにこう聞く。「今、ヒトラーが突然この部屋に入ってきたらどうする?」アンナはそれに対して「立ち上がるでしょう。でも、それは礼儀としてではありません。カッツィ(スカートのすそを持ってかわいらしく挨拶すること)なんてこともしません」と返す。教授は「そうだろうな。君達若者はあれが実際どういうことだったのか知らないのだから」と言い、それに対してアンナは「知ってますわ」と返すが、教授は「書物を通じてな」と返す。そして、「書物で得た知識で責任を一身に負うことはできない。当時生まれていなかった連中にわかりやしないのだ」と言う。このシーンの意味することは?
このシーンに触れ、先生は大東亜戦争についても同じことだとし、僕達学生も当時であれば同じ事をやっただろうとおっしゃった。そして、敗戦なのに終戦記念日といったり、占領軍を進駐軍といったりする言葉のごまかしについて吠えられた。
我々日本人がしたことというのは、一億総懺悔と言いながらも、責任を一部の者(軍部であったり、軍部でも海軍か陸軍とわけたり)のせいにして、結局のところ一億総責任転嫁だと。すなわち「私たちは騙された」、その一言でみんなが善人になってしまうということ。そして、この反省のフリはメロドラマに過ぎない。
寄り道として、帝国海軍と帝国陸軍どっちが悪いかという話になり、ほとんど人が陸軍を悪いと思ってることにたいして、海軍のほうが悪いと主張し、理由として天皇でさえ止められなかった陸軍による開戦論は海軍にしか止められなかったからだとした。あと、暗号解読についても触れ、山本五十六の戦死(すべての暗号が解読されてて、山本五十六が乗っていた飛行機も把握されてて、それで撃墜された)と、チャーチルの政治家としての凄さ(ドイツの暗号が解読できていて、ロケット弾が打ち込まれることを把握していたのに、そのロケットの攻撃対象となる町への連絡は握り潰して、暗号が解読できてないフリをした)なども話した。しっかし、この授業を受けてるどれぐらいが、この話を理解できているかは謎だ。山本五十六なんて、知ってる奴いるのか?僕は中学校時代に軍国少年(何故に?)だったので理解はできるが、そうでもない人なんてわかんないよなぁ・・・。
4限「イギリス小説」。松原先生。スタイナーの作品のように、いわゆる被害者と言われる側からの、要するに「日本が朝鮮に、歴史が朝鮮に何故謝らなければならないのか」というテーマの作品は出てきていないのは何故か。アジアには徹底的に理詰めで考える合理主義がないからだ、とおっしゃる。
日本は金儲けと政治と色事が文化で、個が確立されていないのはルネサンスを通過していないこととキリスト教的文化がないから。
A新聞だけが天皇に対して敬語を使わない。これは他の新聞に抵抗していることが挙げられるが、他の新聞社は敬語を使う理由自体がわかっていないので、その抵抗は無意味。そして、前の愚行を繰り返すことを心配してのことというのも挙げられるが、敬語を使わないことがすぐにそこに結びつくというのが間違いで、これらふたつのことからもかなり絶望的。英米では目上の人に対しても”you”を使ったりするが、日本は自分と他人の関係を考えてものを言う、すなわり他人の鼻息をうかがっている・・・天皇だけを特別視しているA新聞はだからバカである、と。
結局、日本人には”我”がない。我々日本人にとって、自我の覚醒は夢のまた夢で、金儲けと政治と女のことというこの3つしかない。
そんなことを主張されてましたが、まあほとんど同意できるものでした。
4限「イギリス小説」。松原先生。和辻哲郎が『古事記』から、日本では神の上に無限の神がいて、絶対的な神がいないということを導き出したことを挙げて、それに対してキリスト教では絶対的な神がいるので、その観点から人間は平等であるということが言えるのだということを。だから、天皇制は無用の用だとおっしゃる。
日本人が上の者を殺める場合は理念が無い。単純に上に立とうとしたいだけ。永井荷風は「日本人は現実の利害にきゅうきゅうとしていて、理想的国民になれはしない」と言った。そこから、日本人に理想なんてものはないとおっしゃる。
スタイナーの『サンクリストバルへの輸送』では、後半でヒトラーを担架から降ろし、歩かせていたが、これ以上の輸送は困難として、隊長のシメオンは「結局、俺達だけでやらなければならないな」と言う。この「やらなければ」の”やる”とは、日本人の感覚から言うと”殺す”ことだとなるが、彼らからすると”裁判をする”ということで、裁判が行われる。そのことに触れ、『十五少年漂流記』の少年達が最初にやったことはルール作りだということも挙げて、それがヨーロッパの法の下にやっていくという社会の象徴だとおっしゃる。ついでに、法で縛らなくても結構上手くやっていけるので、日本は法を必要としない民族だともおっしゃる。そこには他人の顔色を伺うという特性も出てくるわけですな。
裁判はこの場面においては茶番だが、裁判の形をとって死刑判決を下さないとヒトラーを殺すことはできない。そして、物語はクライマックスのヒトラーの長い演説となる。
「俺が大虐殺を考え出したというわけではないことを理解しなくてはいけない。(略)お前達ユダヤ人の選民の教えを私は知ったのだ。人類のなかで最も卓越した人間に劣等民族は隷属しなければならない。これはお前らユダヤ人がつくったのだ。(略)サマリアでユダヤ人がサマリア人を皆殺しにした。ある一つの理念ゆえに、ある一つのマチに住んでいる人々を皆殺しにする・・・何ともラディカルな装置だ。(略)”マチの全てを滅ぼしき〜”という歌がそれだ」
「以前は多神教なのに、ただ一つの絶対者のただ一つの絶対的正義を信奉するというのはお前達からなんだ」
そんな感じで面白かったですな、今日も。あ、あと、正義病に触れて、後ろだてがないのにあるようにしているのはよっぽどの馬鹿か、偽善者だということもおっしゃってました。
いつも思うことなのだが、松原先生の授業はすぐに実生活にフィードバックできるというか、授業が終っても自分に今日の授業が離れないような、そんな感覚が残る。「良き市民ではなく、良き人を育てる」ということをおっしゃっていた一回目の授業のことが思い出されますなぁ。
4限「イギリス小説」松原先生。前期にやっていたスタイナーの続き。北朝鮮のミサイルに触れて、「菅とかいうどっかの党首が『偵察衛星持つべき』と言っていたが、あれは全くのナンセンスだ。だから日本はいけない。あれが仙台に落ちて5、6万人死ねば、すぐに憲法改正してしまうよ。そういう馬鹿な国なんだ、日本は」とおっしゃる。それはまさしく正義に対する鈍感だとも。
「ミサイルを発射させないために偵察衛星を持つというのは意味がない。ミサイルを途中で落とせばいいが、それも難しいし、非常にお金がかかるし、どれだけの効果があるのかもわからない(田中注:TMDのことを言っているらしい)。ミサイルをミサイルで打ち落とすのは困難だ。ミサイルの本来的な目的とは戦闘機を打ち落とすためなのだから。ミサイル発射装置を壊せばいいか。北朝鮮にミサイルを持って帰ってこれる航続距離を持つ戦闘機はいない、だから空母が必要なんだが・・・空母を持つと他の国を刺激してしまう?馬鹿なこと言うんじゃない、軍事力というのは刺激してなんぼなんだよ。空母が無理なら、”目には目を、歯には歯を”でミサイルを打ち返せばいいんだ」とも。相変わらず過激です。
クリントンのことについては、「あれはアメリカだから起こったことで、成年同士であって、そのことが公務に影響を及ぼさないのであればフランスなどでは起こりえないという趣旨の発言をフランスの外務大臣かなんかがしてたが、あれは全くその通り。心あるアメリカ人が問題にしているのは何よりも”偽証”なんだよ」とも。
ま、そんな感じで寄り道についてしか記述しない。いや、ちゃんと授業聴いてたけどさぁ。
4限「イギリス小説」。内容について詳しく書くと、無駄に長いとか社会派きどってやがるよとか言われてしまうので、今回からは詳しく書かない・・・と思ったけど書く。いいじゃん、別に。いいだろ、イノキ?
松原先生はクーデター前の全斗喚と会ったことがあるらしい。以上。
で終わりと思ったら間違い。まだまだ続く。
相変わらずスタイナーについてなのだが、ユダヤ教とキリスト教、そしてその意志が共産主義・社会主義につながっていって、粛清という大虐殺を巻き起こしたとかそういう話。だからあまり先生はそれらの批判をしないとも。
これ以上書くのは自分でも整理できてないのでやめとこう。
4限「イギリス小説」松原先生。最近僕が日記で話題にしていることも出る。日本の英文学者はイギリスの批評家の引用をするばかりで、他人本位であると。しかしながら漱石は自己本位で、イギリスの批評家が褒めた作品も「私にはわからない」や「ここが面白くない」と言ったと。そういうお前はどうなのかという問われると他人本位な奴等は答えられないだろうとかそんな話。ええ、漱石についての授業です。
東北大学が帝国大学時代にドイツ人講師が大学を去る際にこんな言葉を残したとも教えてくれた。「日本人は2階建ての家に住んでいて、2階では哲学書などを紐につけてつりさげているが、日常生活の場は1階である。そして日本人は2階へ通じる階段を知らない」という言葉。すなわちこれは日常生活と哲学が乖離していることを意味するわけ。
本当に最近日記で話題にしていることとリンクするなぁ。思考回路が似てきたのかしら・・・ってことは干されるということですか?
もちろん學生は懸命にヨーロッパの書籍を研究し、事實またその知性の力で理解してゐる。しかし彼等はその研究から自分たち自身の日本的な自我を肥やすべき何らの結果をも引き出さない。彼等はヨーロッパ的な概念──例へば「意思」とか「自由」とか「精神」とか──を、自分たち自身の生活思惟言語にあつてそれらと對應し乃至はそれらと喰違ふものと、區別もしないし比較もしない。即目的に他なるものを對自的に學ぶことをしないのである。ヨーロッパの哲學者のテキストにはひつて行くのに、その哲學者の概念を本來の異國的な相のままにして、自分たち自身の概念とつき合はせて見るまでもなく、自明ででもあるやうな風に取りかかる。だからその異物を自分のものに變へようとする衝動も全然起らない。彼等はだから自分自身へ復らない、自由でない、即ち──ヘーゲル流に云へば──彼等は「他在に於いて自分を失はずにゐる」ことがないのである。二階建ての家に住んでゐるやうなもので、階下では日本的に考へたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの學問が紐に通したやうに並べてある。そしてヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き來する梯子はどこにあるのだらうかと、疑問に思ふ。本當のところ、彼等はあるがままの自分を愛してゐる。[キリスト教的]認識の木の實をまだ食べてゐないので、純潔さを喪失してゐない。人間を自分の中から取り出し、人間を自分に對して批判的にするあの喪失を嘗めてゐないのである。それに、チャンバレンがdelicate sensitivenessと呼んだ極端な感じ易さがつけ加はる。その裏側は短氣(touchiness)で、これは眞實を囘避するし、前後を顧慮する辨へが無い。筆者は、ボドレールやフロベールの如く、ブルゥドンやソレルの如く、ワ”ーグネルやニーチェの如く、ヨーロッパで見られると同じ嚴しい鋭さを以つて、自己及び自己の國民を問題にする日本人が果してあるだらうかと疑つてゐる。(迷妄ならば筆者は勿論よろこんでこれを訂正したいと思ふ)
先週休んでしまった4限「イギリス小説」に出席。偶然にも今週は出席をとっていたのでヨシとしよう。
やはり今週も夏目漱石の話が出て、松原先生が英文科の若い先生達と飲みに行った時に、この日記では有名な安藤先生が漱石「坊ちゃん」の最後の場面で自然と涙が出てくるとおっしゃってたということを例に挙げて、それが望まれる日本人の感覚だとおっしゃっていた。
グリーンの『ザ・パワー・アンド・グロウリー』をやっているみたいなのだが、先週休んだので何が何だかわけわからず状態。ただ、全体主義の国においては得体の知れない本は隠したほうがいいという話になり、思想統制に触れ、オーウェルの『1984年』に話が移った時には授業内容がわかってくるわけで。っつーか、松原先生が授業を通して言いたいことというのは、僕にはぼんやりとですが見え始めているわけで。だから?と言われれば、なんだっていいじゃん!としか答えられないのですが。
4限「イギリス小説」。3週間ぶりぐらいに見る松原先生は何となく少し痩せてるように見える。小説の話そっちのけで、保守のなかの保守(男のなかの男と同じ調子で)と言わんばかりのことをズーッと語る。ロッキード事件が発覚した時に角栄擁護の記事を雑誌等で書きまくったので、知識人嫌いの角栄から後に「是非先生にお会いしたい」と申し出があったが突っぱねたとか。それに関連して、朝日新聞が角栄の批判をしたのは恩を仇で返すようなものだとも(今の朝日新聞本社の土地は元は国有地で、それを払い下げたのは実は角栄だから)。ある検事(後に検事総長になる)の出した本を産経新聞において批判したところ、すぐにその検察官から速達が着て、更に新聞社の方にもその検察官から反論がいって、産経新聞上層部から直々に「もう批判はしないように」と言われたとか(要するに新聞社側も検事に暴かれてしまうようなまずいことをしていたということ)。
ついでに死に関する話になり、死んだ人に死後会えるとかそういう感じで、「本当ならば福田互存に会いに行くのが義理だが、漱石先生に会いに行く。死んだ娘でもなく、漱石先生に真っ先に会いに行く」とおっしゃった。
そういうところで、ロマンチストみたいな面を出される松原先生ですが、やはり保守は保守。
なんとか4限「イギリス小説」に間に合う。今日も小説の話そっちのけで、共産党やキリスト教について保守のなかの保守といった感じのことを喋りまくる。いや、本当に小説の話なんて10分もしていない。でもなんかタメになった気になるので良い。駄目になった気にはならない。
4限「イギリス小説」。神の下ではなく、法の下で平等になるという法治主義はまさしく法を神に見立てるわけで、法学者は神学者と言っても差し支えないだろう・・・とかそういう話。グレアム・グリーンの『権力と栄光』の続き。まだまだ続くのか?
午後3時過ぎから「イギリス小説」テスト。問題はやはり松原先生らしいもので「イギリス小説を受講して、自分が学んだことについて述べよ」というもの。さすがです。学生に期待してないということを何遍も授業でおっしゃってましたが、ここまで徹底するとは。というわけで、自分のスタンス(「権威を否定するために権威の側に入って自己批判をともないながら権威を告発する」みたいなこと・・・ん?結局全否定か?)を書いて、立花某(プードル?)を批判しつつの、先生の意見に沿いつつの・・・というものを書く。まあ、字が汚いのでちゃんと採点されないのではないかと思うが。