肱の侮辱


 諸君! 私は口無調法で、おまけに無學で、更におまけに文盲で、とても只今まで御講演になつたやうな理化學的に有益な「受賣」は出來ません、(前の二人の講演者ぢろりと矢島の顏を睨む。矢島は平氣。)其處で私は只私自身が此眼で見て、此心で感じた事の一つをお話いたさうと思ひます。

 ツマラないと思はれる方々は御退場を願ひます、と申す處ですが、さうでない。若し、私の談話中、席を起つた方があつたならば、其方は私を侮辱したものと致します。(靜にコップに水を注いで一口飮む)

 さて、お話はこれからですが、少々困つた事が出來ました(と言ひつゝ、洋服のポケットの所々を探す)、お話の草稿が失なりました、(生徒はクスクス笑ふ、前の二人の講演者はザマを見ろといふ顏つき、木谷先生は心配の餘、半分椅子から起ち上がつてゐる)。これは失禮、私は草稿を持つて來なかつたのでした。(生徒は益々笑ふ)私の草稿は腹の中に藏つて在つたのでした。紙へ書いてその一字が見えないと最早行きづまるやうな草稿では無かつたのでした。

 諸君、これから此腹の中の草稿を少しつゝ繰出します。

 私は子供の時から釣りが好きで、河や沼に出かけた者ですが、今でも此道樂は止みません。其處で今年の六月の初めでした、此學校の近所にある川のやうな川に釣りに參りました。此川は初めての事ゆゑ樣子が解らず、たゞぼんやりして川岸の礫の上に腰を下し四方の景色を眺めて居ますと、上流の方から岸をたどつて此方へ來る者がある。近づいたので見ますと、兼て私の知人である洋畫家でした。餘り立派でない和服を着て顏は例の如く髯ぼうぼうとしてゐました。

「寫生にでも出掛けて來たのですか」と聞くと、
「否、さうでありません」と言つて口をもごもごさして眼をパチクリパチクリさして、次の言葉を出さうとして居ますが直ぐは出て來ないのです。これが此人の癖の一つであります。

「私は其處にある中學校に出て居ます」

 と聞いて私は初めて此人が此地方の中學校に洋畫の教師をして居ることを知りました。

「東京から通ふのですか」

「三日目に一度東京の家にかへります」

 夫れから四方山の話を一時間もして、洋畫家は去りました。兔も角、今日は東京に歸る日であるから午後四時の汽車で同道致さうといふ約束をきめました。

 此日の私の釣は大失敗でした。

 午後四時の汽車に間に合ふべく、停車場へ急ぎました。

 途中、諸君の樣な方に幾人も出會ひました。悉皆、肩で風を切るやうな歩きつきを仕て居ました。肩が歩いてるやうでした。其時私は思ひました。肩が歩くやうであるのが別に衞生に害があるのでもない。國家の存亡に關する次第でもない。しかし肩で風を切らないでも同じことだ。どちらでも可いなら彼の高慢ちきな、小にくらしい、いけづうづうしい、生意氣な、馬鹿なくせに利巧さうな顏をして見せる、臆病なくせに大膽な風をして見せる、所謂る肩で風を切ること丈けは見合した方がよろしい、と思ひました。

 停車場の前で畫家は私を待つて居ました。そして洋服に着かへて居ましたが、それが又頗る古物である上にカラーもカフスも垢染みて鼠色になつて居ます。殊に他人の目につくのは、ボロボロしたネクタイが正面でヒン曲つて横でカラーから外れて居る事です。此仁の衣裝は此時ばかりでなく、何時見ても先づ斯んな風を爲て居るのです。

 間も無く汽車が着いて二人は乘りました。同じ車室の中に語學の教師らしい西洋人が乘り込みまして、其れと一緒に生徒が七八人乘りました。覺束ない英語で小生意氣な樣子で西洋人に話し掛けて居るのが第一私の癪にさはりました。所が其の生徒逹は始め洋畫の先生が同じ車室に乘つて居る事を知らなかつたやうでしたが、其中一人が後ろをふり向いて洋畫先生を一目見るや肱で隣の生徒をつゝきました。すると其生徒が又後ろをふり向きました。そして小聲で何か言ひながら更に隣の生徒へ肱の相圖を致しますと、今度は他の三四人が一度に後ろを振り向いて同時に皆が顏を見合せて一種異樣な笑ひ方を致しました。語學の先生は氣が付かないやうでしたが、私と話をして居た洋畫先生はいくらか氣が付いたと見えて、恥かしい樣な悲しいやうな顏容――私は未だ嘗て此樣氣の毒らしい情けない顏付を見た事が有りません。――を仕て居ました。

 此有樣を見た私は言ふに言はれぬ憤怒の情がこみ上げて來て、出來る事なら是れらの生徒を一人一人窓からつまみ出して遣りたい程に思ひました。

 諸君! 諸君は如何思ひます、成程洋畫先生の風采は上りません、成程世辭も愛敬も無い男ですけれども、此人の心の全部が純白で透明で邪氣の無い事を知りながら、是に侮蔑を加へる事は善良なる學生の行爲でせうか。

 けれども私が今皆さんに申し上げたいと思ふのは、さう言ふ簡單な倫理問題では無いので有ります。倫理問題の根本問題です。洋畫先生の如き人に侮蔑を加へると言ふ事は善か惡かと言ふ事を問ふ前に我々は性格の美を認めると云ふ事を學ばねばなりません。性格に對する同情と言ふ事を知らなければなりません。もし其等の事に一切夢中で、只空に善とか惡とか言ふ如き倫理の講義を聞けばこそ、彼の洋畫家を侮辱するやうな中学生が出來るのです。私から申しますと、彼の洋畫家の風采の上らない事やその行爲の何となく間拔けて居る事や、其顏付の爺々むさい事や總てがむしろ長所であつても短所ではないと思ひます。彼のお粗末な外形は其人の極めて單純な善良な心を示して居ると思ひます。

 それらの事に少しも心を用ゐず、用ゐる事を知らず。只外形を見て師を侮辱するが如きは何たる卑しい且つ愚かなる根性でせう、諸君の中に一人でも斯くの如き少年の加はつて居るなら實に皆さんの恥辱で有ります。