制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-05-20
改訂
2001-05-28

「わが友の生涯」(今日出海)より

屡々「原文を讀んでもゐないのに批判をするものではない」と云ふ類の意見を目にする。

もしさう言はれたら、小林秀雄ならば「批評は、當を得てゐるか得てゐないかが大事なのであつて、原文を讀んでゐるかゐないかはどうでも良い事だ」と言返すだらう。或は、「なぜそんな下らない事を言ふのだ」と言はん許りの目附きで睨み返すかも知れない。

吉屋信子を批判した小林秀雄

 ある夜、文壇の会合で小林君がスピーチをした。その中で流行作家、吉屋信子の小説を厳しく批評した。

「私はちよつと読んだだけだが、あれはダメです」

 その席の後の方に、まずいことに吉屋さんがいた。

「小林さん、何ですか、ずいぶん失礼じやないの。読みもしないで人の作品をよくもけなしたわね。よく読んでから批評しなさいよ」

 普通の男だつたら、あの吉屋さんにかみつかれたら、おしまいである。しかし小林君は負けなかった。

「吉屋さん、いいですか、患者の身体を全部診ないとわからないのはヤブ医者。名医は顔色みて、脈を見ればわかるんです。私はね、あなたの小説を二頁読んでるんですよ。そりや、わかりますよ」

結論と過程と

批評とは、對象の本質を把握して、その正邪を見極める行爲である。原文を隅から隅までなめるやうに讀込んでも、誤つた判斷をしてゐたらその批評は無價値である。一方、對象をちらりと見たに過ぎないのであつても、評者が對象の本質を見極め、その長所或は弱點を的確に把握してゐるならば、その批評は良い批評である。

「原文を讀んでゐるからその批評は正しい」と云ふ事にはならない。ならば、「原文を讀んでゐないからその批評は間違ひだ」と云ふ論理も間違つてゐる事になる筈である。

「准南子」に、一臠の肉を嘗めて、一鑊の味を知る、とある。ひときれの肉を味はつてみて、その料理の味を知る。一部分をもつて全部を察知する。の意である。

實際のところ、惡文で書かれてゐるか何うかは、作品の全文を通して讀まなくとも、最初の部分を少し讀んだだけで、はつきり判る。


もちろん、全體を通して讀む事で、「一人の著者」によつて書かれたとされてゐる作品が、實は複數のライターによつて書かれてゐたのだ、と云ふ事が理解出來る、なんて事もあり得る。が、さう云ふ事を知らうとする目的で本を讀むと言ふのは詰らない事であるし、そもそもそんな作品を讀むのは意味がない事である。