「お父さん、やはり私は、村の停車場からだと、村の人に逢ふのがイヤですから、恥づかしいですから、朝早く隣村の驛から發ちたいと恩ひますね。それで自動車を六時には迎へに來るやうに頼んで貰ひたいのですが」
父母の家に歸つてから二週間餘の日が經つた。一旦はユキを父母に預けようとの固い決心だつた。お互に孤衾孤眠の淋しさぐらゐ此際ものの數ではなかつたが、でも、自分に難治の病も持つてゐることだし、ユキ無しに自分は斯うしてここまで生きて歩いて來られたかしら? ユキは私にとつて永久にかけ換へのない女である。兎も角、も一度ユキをつれて明後日はいよいよ再び東京へ引き上げようとする日の朝飯の折、ユキが座を立つて皆のお膳を水口に退げ出した時、私は父に向つて言つた。「うん、そや、われが考へなら…」と、父は俯向いて舌で歯の間をチユツチユツ吸ひながら穩かに言つた。
「村の驛から行けや、何も盜ツとをして夜逃げしたわけぢやあるまいに、そねに逃げ隱れんでもええに」と、母が顏を上げて言つた。
盜ツとをして夜逃げしたのと、妻子ある三十近い男が餘所の女と夜逃げしたのと、面目玉にどれだけの違ひがあらうか! 私がユキと逐電してから離縁になつた先妻との結婚の翌々年に一人で東京見物に行つてゐて大震災に遭つて歸つた時は、部落では一軒殘らず喜びに來てくれた。だが、此度は私の仕打も仕打だし、それに父の家産も傾いて嘗ての飼大にまで手を咬まれてゐるやうな慘めな現在では何や彼と振り向くものもない有樣であつたが、それでも舊恩を忘れない人達が私が八年ぶりで歸つたといふので手土産など持つて挨拶に見えた。その都度、あわててユキを茶の間から奥へ隠し、續いて、合はす顏のない私も一と先づは隠れなければならなかつた。
逗留ちゆう私は事短に父母への不平不滿を色に出し口に出した。殊に生來仲らひの惡い母に對しては、私は持前の隔て心を揮り廻したが、しかし、親なればこそ、不孝の子、不名譽の子を、他人が眼で見るやうに不孝とも不名譽とも思はないのであつた。それなら親の御慈悲に恐れ入つたかと言へば、さ迷ひの子は、依然、さ迷ひの子に過ぎない。糞尿まで世話のやける老耄した九十の祖父、七十の父、五十六の母、先妻に産ませた明けて十四歳の松美──これだけを今まつしぐらに崩潰しつつある家に殘して到底蓮命の打開は覺束ない小説家に未練を繋いで上京するといふ私の胸中は、およそ説きやうのないものだつた。頻りに家にとどまれといふ父の心づくしを無下に斥ける以上、いろいろ作家稼業につき問ひ詰められて何んとか言つて父を安んじたいが、ウソも誤魔化しも、この年になつては言へなかつた。
「ご老體のところを濟みませんが、どうかアト一二年、長くて三年、家を支へてゐて下さい。どうしても駄目なら見切りをつけますから」と言へば、父は「うーむ」と唇を結んで私を見、父子は憮然として話が跡絶えるのだつた……
食後、父と私とは茶の間から臺所へ出、そこの十疊からの板の間の圍爐裏の自在鉤にかかつた五升入の鐡瓶の下に木ツ端をくべ、二人とも片膝を立てて頭を突き合せ默りこくつてゐた。
「村の驛から乘れえ。ユキさんぢやて、ええ着物を持つとつて、誰が見ても恥ぢになる支度ぢやない」と、母は炊事場の障子を開け濡手を前垂れで拭きながら座に加つた。
「お父さん」と私は一段聲を落した。「いづれユキを家に納めるとなれば、披露といふわけではないが、地下の女房衆だけでも招いて顏見せをして貰へませんでせうか?」
「そや、まア、オラ、どうにでもする」
私は眼で母を追掛けたが、母は答へなかつた。父の顏にも明かに迷惑げな表情が漂うた。去つた先妻への義理、親族への手前、何より一朝にして破壞し難い古い傳統、さうした上から世間體はただ内縁の妻として有耶無耶に家に入れたい兩親の腹だつた。
「茶飲友達ちふふうにしとかんかい。家の血統にかかはるけに。先先松美の嫁取りにも、思ふ家から來て貰へんぞい」と母が言つた。
私は口を噤んで項低れた。暫らくして緩い怒りに充たされた頭を上げて、怨めしさうに父を見ると、父は腕組みを解いて語気を強めて言つた。
「まア、時機を待て待て。この次に歸つた時にせいや。…おい、机の上の眼鏡を持つて來い」
母の持つて來た老眼鏡を耳に挾むと、父は手早く柱の暦を外し眞赤に燃える榾火に近よせた。
「一月十五日ぢやのう。さすればと……」と、太い指で暦の罫を押へて身體を反らし眼尻を下げて透かすやうにして「……先勝日か、よし、日は惡うない。そんぢや午頃から妙見樣に參るとせう。オラ、何かちよつぴり生臭けを買うて來う」
言ひざま父は元氣に腰を立てた。ついでに信用組合の出張所で精米をして來ると言つて、股引を穿き、ぢか足袋を履き、土蔵から米を一俵出し、小車に載せて出て行つた。
そこへ、先生が闕勤されて早びけだつたと、もう松美が歸つて來て學校鞄を放り出し、直ぐ濡縁の開戸の前にキユーピーを並べ立たせて私を呼んだ。
「父ちやん、キユーピー射的をやらう」
「やらう」
キユーピー射的といふのは、ユキが銀座の百貨店で買つて歸つた子供への土産だつた。初めはチヤンチヤン坊主とばかし思つてゐたが、よく見るとメリケンで、それ等七人のキユーピー兵隊を鐡砲で撃つて、命中して倒れた兵隊の背中に書いてある西洋數字を加へて、勝ち負けを爭ふやうに出來てゐた。一間の聞隔を置いて、私と子供とは代る代る縁板に伏せ、空気鐡砲の筒に黒大豆の彈丸を籠めては、鐡砲の臺を頬ぺたに當ててキユーピーを狙つた。
「松ちやん、何點」
「將校が五十點、騎兵八點、ラツパ卒十九點……七十三點」
「よしよしうまく出來た」
私が歸郷當座は、極端に數理の頭腦に乏しい松美は尋常六年といふのに、こんなやさしい加算にも、首を傾げて指を折つて考へたものだが、私の鞭撻的な猛練習でそこ迄でも上達させたのだと子供のために喜び、せめて心遣りとしたかつた。それにつけても、餘りにもユキとの營みにのみ汲々としないで、子供を東京につれて行き學業を監督してやるのが親の役目だと思ひ、殆ど一度はさう心を定めたが、子供を奪はれた後の年寄のさびしさを慮り、且つ、自分の生活境遇とカで併せ考へて取消した。東京へ行きたくて堪らない子供は「父ちやんの言ふこたア、當にならん當にならん」とすつかり落膽して二三日言ひつづけた。今の今まで、子の愛のためにはどんな犠牲をも拂はう、永年棄て置いた償ひの上からもとばかり思ひ詰めた精神の底の方から、隙間の小穴ふいごから、鞴のやうなものが風を吹出して呵責の火を煽るのであつた。
「ああ疲れた。父ちやんは休ませて貰はう」
私は居聞の炬燵に這入つて蒲團を引き掛け寢ころんだ。もう二月號創作の顏觸れも新聞の消息欄に出たのだらうが、定めしみんな大いに活躍してゐるだらう、自分などいつそのこと世を捨てて耕作に從事しようかしらと、味氣ない、頼りない心でぽかんと開いた空洞の眼をして、室の隅に積み重ねてある自分達の荷物の、古行季、バスケツト、萌黄色の褪せた五布風呂敷の包みやを見てゐた。
「父ちやん、ハガキ・…」
仰向けのまま腕を延べ、廻迭の附箋を貼つたハガキを子供から受取り裏を返すときやツ! と叫んで私は蒲團を蹴飛ばして跳ね起きた。
「おい、ユキは何處に居る、早く來い、早く來い」と喚き立てながら臺所へ走つて行つた。「おい、何處へ行つた、早く來い、早う早う」
只ならぬ事變が父の運命に落ちたと思つたのか、子供は跣足で土間に下り「母ちやん、母ちやん!」と二タ聲、鼓膜を劈くやうな鋭い異樣な聲を發した。途端、向うに見える納屋の横側の下便所からユキが飛び出し、「父ちやんが、どうしたの」と消魂しく叫んで駈け寄つて來て臺所に上ると、私は、「これを見い」とハガキをユキの眼先に突き附けた──御作「松聲」二月號のXX雜誌に掲載する事にしました、御安心下さい──といふ文面と、差出人の雜誌社の社長のゴム印とを今一度たしかめた刹那、忽然、私は自分の外に全世界に何物もまた何人も存在せぬもののやうな氣がした。私は「日本一になつた!」とか何んとか、そんなことを確かに叫んだと思ふと、そのハガキを持つたままぐらぐらツと逆上して板の間の上に舞ひ倒れてしまつた。後後は、野となれ山となれ、檜舞臺を一度踏んだだけで、今ここで死んでも更に恩ひ殘すところは無いと思つた。暫時の間、人事不省に陷ちたが、氣がついて見ると、ユキも私の傍に崩れ倒れて、「ああ、うれしいうれしい」と、細い長い長い咽び入つた聲で泣き續けてゐた。目前の活劇に、ただ呆氣にとられた子供は、その場の始末に困つて、「祖母さま祖母さま」と、母を呼んだ。
母が裏の野菜圃から走つて戻つて、
「あんた達、何事が起つたかえ」と仰天して上り框に立疎んだ。
忘我から覺めて、私は顏を擡げると、私の突つ伏した板の間は、啜り泣きの涙や洟水や睡液でヌラヌラしてゐた。
ユキが眼を泣き腫らして母の傍へ行つて仔細を話した。
「そんぢや泣くこたない。わたしら何か分らんけど、そねいめでたいことなら泣くこたない」と、母は眼をきよとんとさせて言つた。
「早くお父さんに知らせて上げたい。松ちやん迎へに行つて來い」
斯う子供に命じて置いて私とユキとは居間に引揚げた。「おお、びつくりした、松ちやんの聲がしたので、あなたがまた腦貧血を起したのかと思つて」とユキは手で胸を撫でて言つた。「ほんとに、たうとう出ましたね」
「ああ、出てくれた!」
二人は熱い息を吐き改めて机上のハガキに眼を移して、固く握手し、目にたまる鹽つばい涙をゴクリゴクリ呑んだ。さうしてゐる間に、いつしか私は自然と膝の上に手を置き項を垂れて、自分の貧しい創作を認め心から啓導の勞を惜しまなかつた先輩や、後押ししてくれた友達の顏やをいちいち瞑つた眼の中に浮べ、胸いつばいの感恩の念で報告してゐた。
「このハガキは十一日附のものだから、電報で御禮を言つて置かなければ……」
「ぢや、わたくし行つて參りませう」
「でも、郵便局まで三里もあるんだし、女の足にはちよつと……よろしい、淺野間の吉三をやらう」
取るも取り敢ず母に頼むと、母は二丁ばかし隔つた山添ひの小作男の家に行き、慌しく取つてかへして家の前の石垣の下から、「吉三は炭燒窯に行つちよるが、晝飯にや戻るけに直ぐ行かすちふて、お袋が言うたいの」
そして續けて、「お父さんが、向うに戻れたぞい」と言つた。
私とユキとは縁側に出た。左右に迫つた小山も、畑も、田も、悦びに盛り上つて見えた。高い屋敷からは父の姿は見えなかつたが、杉林の間の凸凹した石塊路をガタガタ車輪が躍つてゐる音が、清澄な空氣の中に響いた。と母は、埃だらけの髮の後にくくつた手拭の端をひらひら靡かせながら、自轉車を押した松美と並んで車を挽いた父に、林の外れで迎へ着いた。父と母とはちよつと立ち話をしてゐたが、直ぐ母は小車の後を押し、首に手拭を卷いた父は兩手で梶棒をつかみ、こつちに藥鑵のやうな頭のてつぺんを見せ、俄に大股に急ぎ出した。梶捧の先には鰓に葛蘿を通した二尾の鮎がぶらんぶらんしてゐた。
屋敷前の坂路を一氣に挽き上げた父は門先に車を置きつ放すが早いか、手拭で蒸氣の立つ頭や顏を拭き拭きせかせかと縁先に來て、「えらう立身が出來たちふぢやないか」と、相好をくづした輝いた笑顏で問ひかけた。
私は一伍一什を掻いつまんで話した。呼吸がせはしくなり、唇も、手もふるへた。思ふやう喜びが傳はらないのをユキが牾しがつて横合から、
「お父さま、ほんたうに喜んで下さい。大そうな立身でございますの。これで、ほんとに一人前になられましたから」と、割込むやうにして話を引き取つた。
私は口をもぐもぐさすばかり、むやみにそはそはして、何んだかひよつとしたら小説が組み置きにでもされさうな豫感がして、私はそれを打消さうと三度強く頭を振り、無性に吉三が待ち遠しく、
「松ちやん、淺野間のお袋に炭焼窯まで大急ぎで呼びに行くやう吩附けて來い。愚圖愚圖してるなつて、大至急の用事だからつて」と權柄がましく言つた。
瞬く間に、松美が自轉車を乘りつけると、お袋はあわてたやうに背戸の石段を下りて川の淺瀬の中の飛石を渡つて麥田の畦を走り、枯萱の根つこにつかまつて急勾配の畑に上り、熊笹の間をがさがさ歩いて雜木山の中に消えたのを、ぢいつと私は眼を放さずに見てゐて、何かぐツと堪へ難いものが心を壓へた。間もなくボロ洋服を着て斧をさげた吉三が、息せき切つて家に駈けつけた。
「お仕事中をお呼び立てして、どうもお氣の毒でした。あなたは電報を打てますね?買は非常に大事な電報なんでしてね」
「はあ、よう存じてをります」
「吉さんなら、間違ひないて。廣島の本屋へ二年も奉公しとつたけに」
と父の口添ひで私は安心し、ノートの紙片に書いた電文と銀貨二箇と、それから別に取り急いで毛筆でしたためた、御葉書父の家にて拜見致し感謝の外これなくお鴻思心肝に徹して一生忘れまじく候──といつた封書も一しよに渡して投函を頼んだ。吉三は軒下で子供の自轉車を股の間に挾み、スパナで捻子をゆるめてハンドルを引き上げ、腰掛けを引き上げして、片足をペタルにかけるとひらりと打跨つて出て行つた。
父は足を洗つて居間に來、私とユキとに取り卷かれて、手柄話の委細を重ねて訊ぎ返した。
「そんで、そのXX雜誌にわれの書き物が出るとなると、どういふ程度の出世かえ?」
多少の堕落と疚しさとを覺えながらも、勢ひに釣られて私は頗る大袈裟に、適例とも思へないことを例に引いて説明した。
「なる程、あらまし合點が入つた」
「ぢや、われ、この次に戻る時にや金の五千八千儲けて戻つてくれるかえ?」と何時の間に來たのか襖際に爪をかみながら立つてゐた母が突然口を出した。
「いや、途轍もない、さうはいかん。そりや松美の教育費とか、その他ホンの少額のことは時をりアレしますけど、そんな滅法なことが、どうして……東京でも田舎で食べるやうなものを食べて、垢光りに光つた木綿を着て、儉約して臆病にしてゐるからこそ暮せてるんですしね。私の場合は、ただ名譽といふ丈ですよ。尤も、お母さんの金歯だけは直ぐ入れて差し上げませう」
兩親を失望させまいとはするものの、もう斯うなれば、私は心の中を完全に傳へることは不可能だと思つて、暗い顏をした。
「よう喉入りがした。實はのう、われが東京で文士をしちよるいふので、オラ、川下の藤田白雲子さん、あの方も昔東京で文士をしとりんされたんで、聞いて見たところ、文士といや名前ばつかり廣うて、そやお話にならん貧乏なものやさうな。大學を出とりんさる藤田さんでも、たうどわしらう見限つたと仰言れた」
と父は瀬戸火鉢の縁を兩手で鷲づかみにして躊躇した後、
「……今ぢやから言ふがのう。われが東京へ逃げて行つた時、村の人が、どんだけわれがことパカバカ言うたかい。出雲の高等學校の佐川一太が文部省の講習會に行つたついでとやら、われが二階借りの煎餅店の女房に聞いたいうて、ユキさんに縫物をさせて一合二合の袋米を買うて情ない渡世しちよるちふて近所の衆に言ひ觸らし、近所の者ア手を叩いて笑うたそよ。おほかた、一太めが、煎餅の二三十錢がほど買うて女房から話をつり出したらうが、高等學校の先生ともあるもんが、腐つたヲナゴ共のするやうな眞似をして、オラが子の恥ぢを晒すかと思うて、その晩は飯も喰はず眠れんかつた。有體に言や、われを恨んだぞよ。そんぢやが、三年前われの名前が小學校の先生に知れてから、前程パカバカ言はんやうなつた。山上の光五郎ら、天長節の祝賀會で、親類の居る前で、われがこと字村の名折れぢやと言うたぞよ。治輔めが飲食店で人の多人數をるところで、家の下男がをるのに、聞いて居れんわれが惡口を言うたげな。何奴も此奴も人の大切な子を輕率にパカバカ言ふない、とオラ歯がみをしとつたが、近頃ぢやみんな默つた。今度も、名前がええ雜誌に出たら、われが事バカパカ言ふものも少なうならうて。オラ、それ丈で本望ぢや」
父の温和な顏には一入の嚴しさが寵つた。私は聞いてゐて恐ろしくなつた。嘗ての父が小つぽけな權力を笠に着て、端から見てさへはらはらするやうに、思ふ存分我意を振舞ひ、他人の子をバカバカと言つた、その報復を受けたのではないか! 私は骨まで痛むやうな氣がしたが、又自己だけの問題とすれば、如何にも降るやうな罵詈を浴びてゐたことは、私にも思ひ半ばを過ぐるわけなのに、それ程とは氣附かず、我身の至らなさは棚に上げ、やれ官立學校の背景がないとか、私學のそれもないからとか、先日來さんざん老父母に當り散らしたものだが、衷心申譯ないと思つた。「松聲」は愚作でも次の作品には馬力をかけたい、歸京したら夜學に通つて英語の稽古をして外國の小説を學んで手本にしよう、願徒然ならず、一心でやりますから、萬事いい方に向けるやうにしますから、と無言で父に詫びた。「われも、東京に行くに精がええのう。まア、よかつたよかつた。……どれ、オラ、魚を切らにや」みんな臺所へ行き、私の居間の炬燵にもぐつた。裏の池の水際で鯖を叩き切る音、膾にする大根を刻む音、ふつふつ煮える釜の飯、それらに混つて賑かな話聲が入り亂れ、やがて薄暗い勝手の隅から、少年の頃には、その、きゆツきゆツといふ音を聞いても口に唾を溜めた四角な押壽司を押す音が懐しく聞えて來た。
ユキが來て何か話に事を缺き、
「松井さんは、疾うに東京へお歸りになつたでせうね。わたし共二人で歸ると、小説が出たので、わたしも一緒に歸つたとでも思つたりなさらないでせうか」と言ひ置いてまた忙しい臺所へ去つた。
それで、ふと、私も松井さんのことを思つた。
──下關行の急行が新橋を過ぎた頃、これが郡會との別れかといつたやうに潤んだ眼で師走の夜寒の街街の灯を窓から眺めてゐるユキを、どう慰めやうもなく横を向いてゐる私の肩を叩いて、「やあ、Kさん」と馴馴しい聲がかかつて、私は顏を上に向けた。思ひもかけず、大賣捌所T堂會計係の松井金五郎さんが、八端織の意氣などてらを清て、マントの兩袖を肩にめくり跳ね、右手に黄色い布につつんだ細長いものを握つて立つてゐた。
「僕、東京驛で、上車臺で押されていらつしやるところをお見かけしましたが、同じ箱に乘れませんでした。どちらへ?」
「やあ、これは松井さん。僕等Y縣の郷里へ……あなたは?……九州、久留米、あ、さうですか。これはいいお件れが出來た」
立所に救はれたやうな朗かな氣持になつた。ユキとの一晝夜からの愁ひを抱いた汽車旅は迚もやりきれないものに思へてゐた矢先なので。私は遽に快活になつて、きよろきよろと松井さんの持物に眼をくれた。
「それは何んですかね?」
「軍刀です」
「ほ、軍刀?」と、私は五體を後に引いて眼を丸くした。「ええ、その、僕、豫備少尉でしてね。滿洲の方ではのがれましたが、南方の戰では足留めを喰つてましてね。しかも、今日明日もあやしい状態で、それで、年越しに田舎へ行くにも、腰のものはちよつと離せませんでしてね。ハハハハハ」と、淺黒い顏の愛矯のいい目に皺を寄せ、漆黒の髮をきれいに梳けた頭を後に振り反らして笑つた。
「ちよつと私に見せて下さいませんか、軍刀といふものを」
私は手を出して軍刀を松井さんから引き取り、包みの紐を解き、鮫皮で卷いてきらびやかな黄金色の鋲金具を打ち附けた握り太の柄にハンカチを握り添へて、膝の上で六七寸ばかり抜いたが、水のしたたるやうなウルミが暗い電燈にぴかツとし慄然と神經が寒くなつて、直ぐ元通りにして返した。
座席のそつちでもこつちでも戰爭の話がはずんでゐて、列車内の誰の顏にも戰時氣分の不安の色が漲つてゐた。少時、私達も戰爭の話をした後、松井さんが先頭に立つて三人は食堂へ行つて紅茶を飲んだ。松井さんは文學が好きで、私の短い自敍傳小説も讀んで下さり、また私が毎月同人雜誌の集金にT堂へ行く關係で親密の度を加ヘ、かなり昵懇の間柄であつた。
「Kさん、何年ぶりです」
「まる八年、足掛け十年目ですよ」
「長塚さんなんか、大阪の新聞の懸賞小説で一等當選して羽前の郷里に歸省なすつた時は、村の青年團が畑の中から花火を上げたさうですよ。Kさんも、花火が上りませう」
言つてしまつて松井さんは、私の頭を掻く顏を見て、氣の毒したといふ表情をした。
「Kさんの場合は本當に困難ですね。長塚さんへ會ふたびにさう言つていらつしやいますよ」と松井さんは言ひ直したが、後に繼ぐ言葉はなかつた。
「……時に、松井さん、私もいろいろ考へたんですけれど、松井さんだからお打ち明けしますが、私もいよいよ都落ちの準備ですよ。今年なんか一ケ月平均原稿料としては八圓弱しか入りませんでした。不足の分を補助してくれる人もありますが三十五にもなつた男が、そんなに何時までも他人に縋つてはゐられませんしね。翌日の食物があるか無いかも知らずに藝術を作つてゐたといふ人もありますが、そんなことを思ふと私のはまだまだ豐滿なる悲哀で恥づべきですけれど、しかし、實のところを申上げますと、私のはその勇氣が有る無いよりも作つても發表が出來ないのですからね。賣れないといふことには困りますよ。いや賣れなくても、心の持方一つで純粹な制作を樂しむことは出來ますが、かと言つて、筋道の通らん女はつれてるし、だんだん年は取るし、老後を想ふと身に浸みますね。それで、行き暮れぬうちに女を遮二無二兩親に引き取つて貰つて、僕は流浪の身にならうてんです。いづれにせよ早晩旗を卷くとしても、女が郷里にをれば都落ちの口實が設けいいし……松井さん、ずゐぶん私は卑怯でせう。笑つて下さい」と、私はわざと聲高にカラカラと笑つた。
「さうですか。それは奥さんはお淋しいですね……」松井さんはしみじみとしてゐた。が誰にも口外してないこの擧を、うつかり松井さんに喋つて長塚なんかに暴れたら嗤はれると思つたが、さすがに口留めは出來なかつた。
車室に戻つてからも妙に氣になつた。或は長塚は嗤ふどころか、寧ろ心を痛めはしないだらうか。名聲の派手な割合に心實は孤獨で、その一點には理解を持つてゐる私を、彼は立場や作風の餘りにも異るに拘らず、蔭日向なく私を推奬してゐた。秋前、ある大雨の日、私達の同人雜誌を廢刊すろか否かの會議が、銀座裏の喫茶店で開かれた時、長塚は敢然として廢刊説を主張した。
「この雜誌はX社のバリケーイドのやうに思はれる。廃さう、損だから」と、古參の或口利きが言つた。
「さうだとも。X社系の雜誌なんか、廢したはうがいい。K君なんかX社系の文士だといふので、何處へも原稿が賣れやしない。僕が、雜誌の名は言へんけど、どんなに頼んでやつてもX社系といふので通らん。てんで受付けん」と、長塚はズパリと言つた。
二十人からの一座の視線は一齋に、襟首まで赤くなつた私に集まつた。私は泣き出したかつた。色彩が古く非文明的だといふことで、私が細い産聲を擧げたそのX社の雜誌でさへ、公器とあらば致し方がない。この一年に一篇の創作を載せて貰ふことも出來なかつた。右を向いても、左を向いても、仲間はみんな一流雜誌に乘り出して行くし、私は今にも發狂しさうだつた。私は白分の小説をユキに讀むことを許さず、ユキも決して讀まうとはしなかつたが、戸惑つた私は以前とは變り、文壇の不平小言を女相手に言ふやうな淺間しいことをして、後では必ず自分の不謹慎を後悔した。「いいから、おつしやいな。わたしをつかまへておつしやるぶんは、石の地藏樣にものを言ふやうなもので、何も判りやしませんけれど、おつしやいな。それで氣持をさつばりさせた方がいいですよ。胸に疊んで置いて、鬱憤を人樣に言つたら、それこそ取り返しはつきませんよ」とユキは注意した。會合などに行く時出掛けにはユキが念を押して口枷を嵌めんばかりに忠告をし、夜遲く歸つて玄關を入るなり、「今晩は別段言ひ過ぎはしませんでしたね?」と訊き糾した。段段さうなつた擧句、私は思ひ決して、厭がる彼女を無理往生に納得させ、國もとへ預けることにした。私は××雜誌に先輩の紹介で七十枚からのものを送つてゐたが、歸郷間際に思ひ立つて六十枚の新作を描き暮れの二十二日に持込んで前のと差し替へ、前のは郷里で描き改めようと、原稿紙やペン先の用意をしてトランクに入れて來て、頭上の網棚にのせてあつた。
汽車は濱松へんを夜中の闇を衝いて駛つてゐた。
「あれが出てくれるといいですがね」と、ユキは言つた。
「出てくれるといいけれど、待てど暮せど出てはくれん」と、私は溜息を吐いた。
「もし、萬が一出たら、直ぐ電報で田舎へ知らせて下さいよ。一年でも二年でも待つてゐますからね。」
「しかしね、私のは時勢に向かんからね大概は駄目でせう。それは、あなたも分つてゐてくれますね。田舎者が、今日流行の、都會派や享樂派に似せようとしたつて似ないから。。……藝術は夫自身が目的で、人生の幸福を得るための手段と心得たら大間違ひだ。成功するための手段ではなくて、實に此一道より他に道はないから結果は分らぬが、たとへ虎が口を開いてても、大蛇が口を開いてても、此一道を行かにやならん、といふのが私の信念なんだから」と、私は握拳を固めてわれと自分へ極めつけるやうに言つた。
「ええ、それは分ります。でもね、どうぞして出てくれるといいですがね。もし出たら、直ぐ迎へに歸つて下さいね、後生ですから」
そのうち私は眠つてしまつた。が、ユキのはうは、初對面である私の兩親、祖父、ユキには繼子の松美のゐる遠い山の家へ、欲しがつた箪笥も、鏡臺さへも買ふことを私に拒まれ、行李二個の持物で道ならぬ身の恥ぢを忍んで預けられに行く流轉生活を思うて、寢つけなかつた。程なく私が眼を覺ますと、私が讀みかけの本の表紙の文字を隠したカバーの紙に、
ま暗き海にただ一人漕ぎ出し背の舟を
我は渚に待ちて祷らん
と鉛筆で書いて、私に氣がつき易いやうに脇に置いてゐた。私に對ひ合つてハンカチーフで寢顏を隠してゐるユキを見詰めて、込み上ぐる憐憫と何うにもならぬ我身の不甲斐なさとを思つた。……
こんなことが、今、夢のやうに思ひ返されて來る。さうした囘想の間にも、喜びの餘震が何囘も襲うて來た。
ユキは又、手隙きを見計つて勝手から來た。
「靜岡に着いたら朝刊を買ひませうよ。大きな廣告が出てゐるでせうね。……毎日十九日が來るのが悲しかつた。十九目の新聞に方方の雜誌の廣告が出ると、あなたが頭を抱へて、ああイヤになつた、イヤになつた、僕ら親父の家に歸る親父の家に歸るつて四五日は機嫌が惡くて、ほんたうに、わたし、毎月毎月、十九日が來るのが辛かつたですね」
私は顏をばつと赧らめ、苦笑の唇を弱つたやうに歪めたが、赧らんだ顏が見る見る土色に褪せるのが自分に分つた。
「もう何んにも言うてくれるな」と私は眉根を寄せ手を激しく振つて叱つた。「奇蹟だよ、僥倖だよ。一つ二つ出たからつて、行く道は難い。これで前途が明るくなるとか、平安とか、さういふのとは違ふんだもの」
災なる哉災なる哉、と思つた。嬉しいやうな哀しいやうな、張合拔けのしたやうな、空無とも虚無とも言ひやうのない重い憂鬱が蔽ひかぶさつて、それきり私は押默つた。
一と時、覿面に來た興奮の祟りから顏が眞赤に火照つて咳が出て、背筋の疼痛がジクジク起つた。持つて歸つた藥瓶を取り上げると底の沈滓が上つて濁れたが、私は顏を蹙めて口飲みにして、小一時間ほど靜かにしてゐた。
外では小雨がそぼ降り出した。六里隔つた町から午砲が聞えて來た。「おい、行かうぞえ」と父の聲がかかり、私は大儀だつたが起きて丹前の上を外套でつつみ、戸口に立つて私を待つてゐる父と連れ立つて私だけ傘をさして家を出た。私は歸郷以來初めての外出だつた。一と足遲れて家を出た、茣蓙を持つた松美と、レース絲の編み袋に入れた徳利をさげて焦茶色のコートを着たユキと、重箱を抱へた母との三人が、家の下の土橋を一列に渡つて田の畦を近道して山寄りの小徑では一と足先になつて、父と私との追ひ着くのを待つた。學校服に吊鐘マントを着て長靴を穿いた子供は、小犬のやうにどんどん先へ走つて、積み藁の蔭や竹藪の蔭から、わツ!と言つて飛び出してユキを魂がしたりした。爪先上りの赭土の徑を滑らないやう用心しいしい幾曲りし、天を衝いて立つてゐる樫や檜の密林の間の高い高い石段を踏んで、やうやつと妙見神社の境内に着いた。ここからは遠く碧空の下に雪を頂いてゐる北の方の群峰が鮮かに見えた。
私は二十年もここに參詣に來てないわけであつた。が昔ながらに、森嚴な、幽寂な、原始氣分があつた。雨にしめつた庭の櫻の木で蒿雀が一羽枝を渡り歩いて、チチチと鳴いてゐた。亂雜な下駄の足跡を幾つものこしながら私達は燈寵の間を歩いて、茅葺の屋上に千木を組み合せた小ぢんまりした社の前に立つた。拜殿の鴨居の──舊在南山儀驗紳今遷干此、云云……寛文四年秋──と彫り込んだ掛額の前にぶら下つた鈴の緒を、てんでに振つて、鈴をヂヤランヂヤラン鳴らして拜殿に上り、正面の格子を開いて二疊の内陣に入つた。七五三繩を張つた扉の前には、白木の三方に土器の御酒徳利が二つ載つてゐた。そこへ持つて來た重箱や徳利を供へると、父は袂から蝋燭を三本出して、枯木の枝のやうな恰好した燭臺に立てて火をつけた。
そして畏まつて扉に向つて柏手を打ち、「ナム妙見、ナム妙見」と口の中でぶつぶつ言つた後、傍らの太鼓を叩くと、
マカハンニヤハラミタシンギヨウ、カンジザイボウサツ……と御經を高高と讀み出した。父の背後に私と子供とはきちんと畏まつてゐた。御經がずんずん進んでゐる最中、ユキが「お母さま、ほんとに靜かないいところでございますね」と話し出したので、私はユキを屹と睨んで默らせた。
讀經が終ると早速お重を下げ、ユキが壽司を皿にもつて配り、木がら箸を二本づつ添へた。私も子供も直ぐ壽司を食べ出した。父は徳利の酒を手酌で始めたので、ユキがお酌をしてやればいいのに氣の利かぬ奴だと腹立たしく思つてゐると、父は靜に飲み乾して、手首で盃の縁を拭いて、
「そんぢや、あなたに一つ差し上げませう」とユキの前に出した。
「いいえ、どうぞお構ひなく、わたくしお酒はいただきませんから」
私はくわツと胸が熱くなつて、「馬鹿、頂戴したらいいだらう、飲めなくたつて」とたうとう苦がり切つて言つた。
「いやいや、ご婦人の方は、ご酒は召上らんはうがええけど、まアまアーつ……」と、父は私の荒げた聲を宥めるやうに言つた。
ユキは母に酌をして貰つて飲むと、「お父さまにお返ししませう」と、盃を返した。父は如何にも滿足さうに、「ぢや、お受けします」と言つて受取ると、ユキがお酌をし、少しこぼれたのを父は片つ方の手の腹に受けて頭につけながら母に向つて、「お前もユキさんに上げえ」と命じた。
咄嵯に、はツとして何か私の胸に應へて來た。土蔵の朱塗の三つ組の杯を出し正式の三三九度は出來なくとも、父が心底ユキを赦して息子の嫁としての親子杯──さうに違ひない、すべて屹度父一人の考へなのだと勘付くと、心にしみて有り難さが湧いた。が、次の瞬間、それは恐ろしい速力で、あの、三つ組の赤い杯を中にして眞白の裲襠を着た先妻と、八枚折の鶴龜を描いた展風を立てた奥の間で燭宴の黄ろい灯に照らされて相對した婚禮の夜が眼の前に引き出され、燒き付くやうに苦惱が詰め寄せた。と同時に今日の一切の幸福が、その全部を擧げて暗黒の塊りとなつた。私は苦しみを一刻も速く俄雨のやうに遣り過ごしたいと箸を握つたまま鬪つてつてゐると、父が訝しげな面持で、
「ぢや、われにやらう」と盃を私にくれた。私は微笑を浮べて父に酬盃し、別の盃を予供にやつて「飲んだら母ちやんに上げなさい」と、ぐつたりした捨鉢の氣持で言つた。子供は私の注いでやつた盃を兩手でかかへ首を縮こめて口づけ乍ら上目使ひに「母ちやんの顏が赤うなつた、涙が出るやうに赤うなつとら」と、ヘうきんに笑つた。愚鈍なユキは、飲み慣れぬ一二杯の酒に醉つて、子供の言ふ通り涙の出さうな赤い顏して、神意に深く呪はれてあるとは知らず、ニコニコしてゐた。