私の家のすぐ隣りは、フランスの神父のいるローマカソリック教會堂である。その隣りは、ロシア系のハリストス正教會である。この二つの會堂は、夫々高さ五十メートルほどの塔をもつてゐるので、船で港へ入るとすぐ目につく。ハリストス正教會の前には、イギリス系の聖公會があり、やや坂を下つたところにはアメリカ系のメソジスト教會がある。私の家は淨土眞宗だが、菩提寺たる東本願寺は、坂道をへだててわが家の門前にある。また同じ町内の小高いところには、この港町の守護神である船魂神社が祭られ、そこから一直線に下つたところには、中國領事館があつて、ここは道教の廟堂を兼ねてゐた。要するに世界中の宗教が私の家を中心に集つてゐたやうなもので、私は幼少年時代を、これら教會や寺院を遊び場として過したのである。幼い私は宗教的コスモポリタンであつた。
全卷を通して舊漢字舊かなが使つてあるので、若い讀者には多少不便かもしれないが、讀めないといふことは絶對にない筈である。私は新聞に書くときはその新聞社の規定に從つて、當用漢字新かなを用ゐることがある。また出版社の希望でそのやうにする場合もあるが、自分の基本となる著書(選集決定版等)だけはすべて舊漢字舊かなを用ゐることにしてゐる。
日本語についての私の信念にもとづいたことで、その理由をいまここで書くとなれば、それだけで大きな論文になつてしまふので省略するが、たとへば「愛の無情について」(第三卷)のなかの「言葉の微妙について」や「詩についての覺書」等を讀んでいただくなら、私の眞意は理解してもらへると思ふ。自分にとつて最も大切な著書くらゐは、表現の自由を思ふ存分行使してみたいものだと思つてゐる。