今ではあまり度々は聞かないやうに思ふが、ずつと以前から東京市電の車掌の言葉に
切符の切らない方はありませんか
といふ言ひ方が一般に行はれて人々の間に問題となつてゐた。之を文法の問題としてはじめて取上げたのば松下大三郎氏であらう。氏は昭和三年刊行の改撰標準日本文法(七三八頁)に、萬葉集の
山吹の立ち裝ひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
の歌と共にこの種の「の」の例を擧げ、「道の」「切符の」の如き形を客體的連體格とし、「知らなく」などの作用の客體を表してゐるが、主語でも客語でもなく連體語であると説明せられた。然るに、昭和五年刊行の標準日本口語法にはこの説を改めて
切符の切らない
方 帽子の忘れた人
宿題のまだ出さない人
願書の出した方
これは「△△」が「==」の動作の客體を表してゐるから「△△」は「切符を」「帽子を」といふ樣に考へられるので客體的用法とも見られる。前には私もそう思つた。しかしやはり主體的用法である。主體には大小の二つが有つてその小主體は言はないのである。
切符が、私が之を切らない
帽子が、人が之を忘れた
宿題が、人がまだ之を出さない
願書が、人が之を出した
と解すベきものである。「△△」は大主體、「●●」は小主體。そうして「之を」は大主體を客體に變形して再言したもの。前頁の例は其の再言を怠つたものである。(同書二六一-二頁)
と説いてゐられる。
以上松下氏の前後の二説の中、前説は、つまり「の」が「を」の意味になるといふのである。なるほど、萬葉集の「道の知らなく」の如きは、他にも「すべの知らねば」と用ゐた例もあつて、「の」を「を」の意味に解するのが自然なやうに見えるけれども、しかし、委しく調べて見ると、かやうな例は「知る」といふ語に連る場合の外には無いのであるから、これは「知る」といふ語が、「知る」といふ意味の外に、古く「わかる」といふ意味をもつてゐたと解すべきであつて、「の」はやはり主語を導くものである。又、「事件の處理」「世帶の切り廻し」のやうな場合に、連體の「の」に「を」のやうな意味があるとも見られるけれども、これは、之を承ける語が體言である場合に限るのであつて、若し用言であれば「の」はいつも主語を導くものである。又、「芝居の好きな女」「水の飮みたい人」の「の」も、一寸みれば「を」の意味をもつやうであるが、「芝居が好きだ」「水が飮みたい」といふのを見れば、やはりこれも主語を導く「の」である。かやうに、「を」の意味に解すべき「の」の實例は他に無いのである故、「切符の切らない方」の「の」をさう解するのは根據が無い。
又、松下氏の後の説、即ち「切符が私が之を切らない」と解する説は無理であつて、我々は、そんな言ひ方も、又考ヘ方も決してする事は無い。(もつとも「切符は切らない」と言ひ、それが「切符は私が之を切らない」といふやうな考へ方から出たものである事は認めてよいとしても、それは「切符は」と、係助詞を用ゐた場合であつて、「の」の場合とは別種のものである)。もしそんな言ひ方があるとしても、「切符が切らない」は、どこまでも切符が何かを切るのであつて、切符を切るといふ意味はどこからも出て來ないのである。
松下氏に次いで木枝増一氏は、
切符を切らせない方はありませんか
といふ解を一説として擧げられ、しかし自説としては、
切符の切らないのを持つてゐる方はありませんか
の省略であるとすると説かれた(高等口語法講義四七〇〇-三頁、高等國文法新講六七八頁)。この「切符を切らせない方」と解する説は、「切符の」が、どうして「切符を」の意味になるかを説明し得ないのみならず、「切らない方」で「切らせない方」の意味を表はすことも他に例をもとめ得ないであらう。又、
切符の切らないのを持つてゐる方
の省略とする説も、「のを持つてゐる」といふ、かなり複雜な内容を有する部分を省きながら、果してさういふ意味を聞手に理解せしめる事が出來るであらうか。こゝに難點があるといはなければならない。(赤い切符を持つてゐる人を「切符の赤い方」とはいふであらう。しかし、これを「切符の赤いのを持つてゐる方」の省略とするのは無理である。これは、その人の丈が高い場合に「丈の高い人」といふと同じく、その人の切符が赤いので「切符の赤い方」といふのである。それ故、「切符の赤い方」の「の」は主語を導くもので、「切符の赤いのを」並に「切符の切らないのを」に於ける「切符の」の「の」が連體の「の」であるのとその性質を異にしてゐる。)
「切符の切らない方」の説明として私の目に觸れたのは以上にとゞまるが、これらの學者の苦心にもかゝはらず、その的確な解明はまだ出來てゐないといはなければならない。
私は、右の車掌の言葉は比較的簡單に説明出來るものと思ふのである。今假に私が車掌になつたとして、右のやうな場合に勝手に自分の言葉で言ふとしたち、何といふであらうか。
切符を切らない方はありませんか。
これでよい。「私が切符をまだ切らない人はないか」といふ意味を右のやうに言ふのは正しい日本語の表現である。しかし、こゝに少し難がないではない。「切符を切らない方」といふ言ひ方は、乘客が切符を切らない場合にも用ゐられる。どちらかといふと、右のやうな言ひ方は、そんな意味に解すべき場合の方が寧多い。勿論乘客が切符を切るなどいふ事は實際無い事である故、誤つてさういふ意味に解したとしても、猶一度考へて見れば正しい意味はすぐわかるけれども、この言ひ方はそれ自身として右のやうな二樣の解釋が可能であつて、一時誤解を來すか、又は變に感ぜられる虞が無いでもない。
そこで、もつと違つた言ひ方が無いかと考へると、
切符の切つてない方はありませんか。
といふのがある。これも正常な日本語であつて、誰が切つたかを問はず、結果として、その人の切符が切られてゐる場合は「切符の切つてある方」であり、さうでない場合は「切符の切つてない方」である。勿論これでは誰が切符を切るかは示されてゐないが、車掌が切る事はわかりきつた事として態態言はないですませてもよい。さうして、この言ひ方ならば、明白に一義的であつて、他の解釋を許さず、誤解を來す虞は無い。
それではこの言ひ方を用ゐればよささうであるが、これにも難がある。これを大きな聲で呼んでみると發音しにくい處がある。それは
キップノ キッテナイカタハ アリマセンカ
と三段にわかれて、中段が長すぎるからである。呼びにくいといふ事は、車掌用語としては随分重大な缺點であつて、この言ひ方も萬全なものでなく、これに安んずることが出來ない。
之と較べて、前に擧げた
切符を切らない方はありませんか。
は、音の續きも長すぎず(三段で、四音節、七音節、六音節となつてゐる)口調もなだらかであつて、大聲で呼ぶには誠に都合がよい。しかし、前にいつたやうに、「切符を切らない」といふ言ひ方に誤解を生ずべき懸念があつて、そのまゝ用ゐるのは躊躇せられる。
かやうに上述の二つの言ひ方、
- 切符を切らない方はありませんか。
- 切符の切つてない方はありませんか。
は、どちらも正しい言ひ方で、どちらを用ゐてもよいのであるが、車掌の用語としてば、それぞれ長所と短所とがあつて、そのまゝは用ゐにくい。處が、この二つは、意味が大體同じであるばかりで無く、語句も非常によく類似し、唯二ケ所に各一音の相違があるだけで(「切符を」と「切符の」、及び「切らない」と「切つてない」)、互に聯想し易く、一方から直に他のものを想起させる性質のものである。そこでこの二つの言ひ方を同時に思ひ浮べて、雙方からそれぞれ適當なる部分を取つて一つにし、一方の短所を他方の長所によつて補つたのが問題の
切符の切らない方はありませんか
であらうと思ふ。即ち、口調が滑かで發音に都合がよい點から(一)の言ひ方を取らうとしたが、「切符を切らない」の部分が意味の明瞭を缺く虞があるところから、おのづから不安を感じ、意味及び形の類似から自然に之と共に思ひ浮ぶ例の言ひ方から最初の「切符の」を取つて最初に置き、以下は(一)の言ひ方に徒ひ、かやうにして、誤解の虞も無く口調もよい「切符の切らない方」といふ新しい言ひ方が出來たのであらう。
以上の私の説明は、この表現の發生過程をあまりに有意的なものとし、あまりに論理的に取扱つた嫌があるのであつて、實際はさほど明かな自覺なく、むしろ直觀的な感じによつて行はれたであらうが、とにかく、世間普通に行はれ誰にでもわかる(一)例の如き表現があるにも拘らず、それがそのまま用ゐられず、それとは幾分ちがつた、多少不自然の感じさへ伴ふ表現が新たに出來たのは、單なる偶然の結果と見るべきでなく、上に擧げた世間普通に用ゐられる二つの表現に對する價値判斷と之に基つく取捨選擇とが暗々裡に行はれたものとしなければならない。
私は問題の「切符の切らない方」を「切符を切らない方」と「切符の切つてない方」との二つの表現が混合して出來たものと説明した。それは、つまり言語學にいふ所の
混淆とは、意味が類似し、形に於ても相通ずる所のある二つの語又は表現が混合して、雙方から一部分づゝを取つて之を一つにした新な語又は表現の生ずる事をいふのであつて、新語や新表現發生の一原因をなすものである。これは談話、殊に不注意な談話には屡現れる現象であつて、多くの場合にはその場だけのものとして消失するのが常であるが、時には一般に取り上げられて、言語變化を生ぜしめる事があるものである。混淆については西洋の言語學書には大概その名が見え、種々の實例が擧げられてゐるが、これは個々の語や、文法上の諸形式や、種々の表現形式の史的研究が進展して、その歴史を明かにした上でなければ的確な判斷を下し難いものである故、國語の例として確實なものはあまり擧げる事は出來ないが、二三の例を擧げれば、
「しらためる」 「御所櫻堀河夜討」(文耕堂、三好松洛作)に見える語である。これについて穂積以貫は「難波土産」(卷一)に次のやうに言つてゐる。
その咎をしらためるに
しらためるの語淺ましゝ。是は京大坂などの
側陋 の匹夫などが調ると云事と改るといふ事とを聞はつりで兩語を一つにしてしらためるなんどいふ、それを直に取たるならん。殿中にてかぢはらが口上には似合ず。
これは無學のものの間に行はれた語で、「しらべる」(検査するの義)と「あらためる」とが、意味が略同じく、形も互に似た所があるところから、之を一つにして「しらためる」といふ新しい語が出來たのである。
「とらまへる」 今も用ゐられる語であるが、「とらへる」と「つかまへる」とが混淆して「とらまへる」となつたのである。「とらまへた」といふ語は天草本伊曾保物語に見え、「つかまへ」といふ語は既に平安初期の東大寺諷誦文稿にあらはれてゐる。
「…と否や」 「…するや否や」の意味で、江戸初期のものにかなり多く見えてゐる。
其夜は明ると否や早々に引取、おさかべヘ引で越年有し也(松平記卷四)
爰は我に任せおかれ候へと云すて、馬に打乘堀ぎはへ馳セ
着 と否 堀へ飛入しかは、跡よリ十人計引つゝひて飛入しに(甫庵太閤記卷十二)
おぬし達は淨るりをかなり出すといなやほめられんとおもひ初手から終まで面白くかたる故(役者論語、耳塵集上)
これは、古くから用ゐられた、「暮るるとひとしく參り給ひて
」(讚岐典侍日記上)「寄ると均しく切岸の下なる鹿垣一重引き破りて
」(太平記卷十七)の如き「…とひとしく」の形が、「四日に城主切腹被仕候やいなや御手前の大知坊と申陣僧を毛利殿陣吉川駿河守元春小早川左衞門允隆景宍戸備前守元次此三人へ被仰遣次第
」(川角大閤記、卷一)の如き「……やいなや」の形と同じ意味を表はすところから、之と混同して、「…といなや」の形を生じたものである。
猶、ずつと以前、本郷通りに電車もまだ出來なかつた時分に、私が大學の前に人力車を駐めて客待ちしてゐた車夫から
旦那、御伴になりませんか
と乘車を勸められた事を記憶してゐる。これも、
御伴致しませうか
御乘りになりませんか
以上二つの言ひ方の混淆によつて生じたものである。
かやうに混淆といふ現象は、實際の言語には屡起るものであるから、かの「切符の切らない方」も、他の方法によつて滿足すべき解決が得られない以上は、混淆によつて生じたものと解するのが最自然な解明であると信ずる。
以上の私の説が幸に當を得たものであるとするならば、かやうな解釋に基づいて「切符の切らない方」といふ言ひ方を文法上如何に説明すべきかといふ事が問題になる。
まづ「切符の」の「の」の取扱ひ方であるが、この「の」は「切らない」に係つて行くのであつて、もしこれに「を」の意味があると見る事が出來れば一應の説明は出來るのである。舊來の文法家や國語解釋家ならば「を」の意味の「の」とか、「を」に代る「の」とか説明したであらう。しかし、前にも述べた通り、「の」を「を」の意味に用ゐる事はこの外に例が無い上に、この「切符の」は元來「切符の切つてない方」といふ言ひ方に基づいたもので、「の」は「切つてない」に對する主語を導くものであつたのである。それでは主語を導くものとすべきかといふに、「切らない」といふ動詞に連續してゐるのであつで、さやうな場合には、文法上「切符が何かを切らない」意味に解する外なく、それでは事實に違ふ事となる。さうして、この「切らない」は本來「切符を切らない」といふ言ひ方から出たもので、「を」を承けるべきものであつたのである。かやうに、この「の」は、「を」と解する事も出來ず、主語を導くものとするのも不穏當である。
それでは、「切らない」に對して何か説明のしやうはあるまいか。前に私の推測した所によれば、「切符の切らない方」の「切符の」は「切符の切つてない方」といふ言ひ方から出たものである。さすれば、「切らない」に「切つてない」といふ意味があるとか、又は「切らない」は「切つてない」の省略であるとか説明する事は出來まいか。實際この種の説明法は、舊來の文法家や解釋家には屡用ゐられたものである。しかしながら、これ以外の場合には「切らない」と「切つてない」との間に劃然たる區別があつて、一を以て他に代へる事は許されない。それをこの場合にだけ同一視する事は、不合理であるのみならず、また我々の言語意識にも合致しない。もし右の言ひ方が我々の言語意識から見て自然なものであるならば、それが世間の人々の間にあのやうに問題となる事はなかつたであらう。又「切らない」と「切つてない」とは、只「て」音一つの相違に過ぎないが、この一音の有無によつて、兩者の意味の相違が示されてゐるのであるから、それは言語としては極めて大切なものである。それを省略するなどいふ事は殆ど考へられない。
かやうに考へて來ると「切符の切らない方」といふ言ひ方は、そのままではどうしても文法的説明の出來ないものである。これは二つの違つた言ひ方が混線したものであるから、之を解き放して元の形にかへさなければ、語句の間の一貫した連絡を求める事は不可能である。かやうに常規を逸したものを、正常な言語現象として解明しようとした所に、これまでの學者の並々ならぬ努力にも拘らず、滿足すべき結果を得る事が出來なかつた原因がひそんでゐるものと私は考へる。
さて右の「切符の切らない方」といふやうな言ひ方は我々の言語意識には幾分異樣に感ぜられる。車掌用語としては用ゐられてゐるが、普通の言葉としては「切符の切つてない方」とか「切符を切らない方」とかを用ゐるであらう。松下氏は、これと同種のものとして
の諸例を擧げてゐられるが、私には、かやうな言ひ方が正常なものとして認められてゐるとは決して思はれない。實際の談話には時に用ゐられる事があるかも知れないが、少くとも口語文としては正しいものとは認められないであらう。しかし、こんな言ひ方が時に用ゐられる事があるとしても、それは、「切符の切らない方」の場合と同じく、
以上の如き二つのものの混淆によつて生じた形であつて、初の部分は上段の如き言ひ方から、終の部分は下段の如き言ひ方から出たものであらう。さすれば正常な文法研究の對象としては取上げるべきものではない。
又、前に擧げた車夫の言葉
且那、お伴になりませんか
の如きも、もし之をそのまゝ普通の文法によつて説明しようとすれば、
御伴になりませんか
は、其の言語としての構成に於て
御覧になりませんか
おいでになりませんか
と同一であるから、これらと同樣の意味だとすれば、「お伴なさいませんか」の意味と解する外なく、さすれば車夫が客に對して自分の伴をする事を勸める主客顛倒の言となるのであつて、之を脱する途は到底見出されないであらう。混淆によつて生じた形が正常な文法の法則を以て律し得ない事は、これを見ても明白である。
要するに、混淆によつて生じた表現は、一種の畸形兒であつて、正常の文法のきまりから孤立したものである。然るに、かやうな非文法的表現が、何かの理由で世に廣まり、更にそれを模範として之と同じ形式の表現が、必要に從つて自由に作り出されるやうになる事も、時にはあるであらう。かやうな時に到つて、はじめてそれ等の表現が文法研究の對象となり、それの構造が正常なる文法上の現象として取扱はれるやうになるのである。
前にも一言したやうに、混淆は實際の談話には屡現れるけれども、多くはその場限りで棄て去られて永い生命を保たないのを常とする。それは混淆によつて生じた形は、正しい言語感覺をもつてゐる人々には多少とも奇異の感を懷かせるからである。しかしながら、然るべき條件を具へた少數のものは、多少とも一般化して、或限られた場合又は或限られた社會に、時としては一般言語社會に、常用せられる事がある。問題の「切符の切らない方」は、かやうな少數の例の一つであつて、車掌用語としての限られた範圍に於てではあるが、一般に行はるゝに至つたものである。この言ひ方がかく一般化したのは、
以上のやうな條件を其へて、他に代へ難いものであるからであらう。
以上私が説明を試みた「切符の切らない方」の如きは、現代國語の研究としては片隅の瑣々たる問題に過ぎず、幸にその解明に成功したとしても大して問題にするには足りないものであらう。しかし、私の解する如く、これが混淆の結果生じたものであるとするならば、同樣の現象は實際の言語に於ては古今を問はず屡見られる筈であるから、過去の文獻にあらはれた言語の上にも必ずしも絶無と斷ずる事は出來ない。されば、さやうなものを如何に見如何に取扱ふべきかを考へておく事は、現代語を研究する場合にも、過去の文獻に基づいて過去の言語を考究する場合にも必要であつて、もし、之に對する正しい認識がなければ、思はぬ錯誤に陷り又は空しき努力を費す虞が無いとも限らない。かやうな認識を深める爲には、この粗雜な小論も必ずしも無用ではないであらう。
猶、右に述べた事は、一方文法の限界といふ問題にもつながる事柄である。世間には文法といふものに對して、全然相反した考をもつてゐる人々があるやうである。一つは文法を極めて輕く見る人々であつて、これらの人々は、文法を知らなくも立派に文章や談話を理解し、又言語をつかひ文を書く事が出來る。之を文法的に説明するのは、只わかりきつた事柄をむづかしい理窟で説明するばかりであつて、實際何の役にもたゝない。文法などは知らなくてもよいと考へる。文法無用論者である。
一つは、文法を重要視して、文法がよくわかれば、解釋上の疑義が明亮に解決せられると考へる人々である。以上のやうな考をもつてゐる人々はどちらも文法といふものの本質について本當に理解してゐない素人であつて、今日の文法學者にはまさかこんな考をもつてゐる人はなからうと思ふが、このやうな論はどちらも極端に走つたもので、眞理はその中間にあるのである。言語には單語とか、文とか、接頭語接尾語のやうな、大小各種の意味を有する單位があつて、大きな單位は小さな單位から組立てられてゐるものであるが、文法は、小さな單位からして大きな單位が構成せられる場合のきまりである。正常な言語はこのきまりによつて成り立ち、實際に行はれるものであつて、もしこのきまりに從はなければ他の人々にはわからないか、誤解せられるか、さなくとも、外國人のつかふ未熟な言語のやうにをかしく聞えて、正しい言語とは認められないのである。それ故、その言語を用ゐる人人は誰でもこのきまりに從はなければならず、又實際、その言語を正しく用ゐてゐる人なら、その文法に從つてゐるのである。しかし、その文法上のきまりは、之に從つて實際言語を用ゐてゐる人々にも、明かに自覺せられないのが常であつて、それがどんなきまりであるかは特別に研究した人でなければ明かに示すことが出來ないのである。これは丁度、我々が空氣の中に生活してゐるのと同じことであつて、それを自覺しないでも日常の生活は營む事が出來るのであるが、それだからといつて我々は空氣がどんなものであるかを如る事は無用であるといふ事は出來ないと同じやうに、我々が自覺すると否とにかゝはらず我々の日常の言語の中に文法上のきまりがあるのは疑ふべからざる事實であり、我々が正常な言語を用ゐる場合には、そのきまりに律せられてゐるのであるから、そのきまりがどんなものであるかを知る事は決して無益であるといふべきではない。まして、我々が、かやうなきまりのある事をほとんど意識せずしても誤なくつかふ事が出來る言語は、我々の住んでゐる地方に行はれてゐる言語、即ち、その地の方言であつて、土地の相違によらず全國民に通ずる言語として、日本國民が誰でも必ず知り、且つ自由に便用すべき言語である標準語は各地の方言と同じでなく、その文法に於ても相違がある故、標準語の文法がどんなものであるかといふ事は日本國民としては必ず心得ておかなければならないのである。まして、平生の言語と相當の程度に違ひがある文語や古代の文になると、その文法を特別に學ぶ事が大切であつて、それによつて、之を正確に明亮に理解し、又誤らず使用する事が出來る場合が少くないのであるから、文法の知識は是非必要である。決して無用でも無益でもないのである。
しかし、だからといつて、文法さへわかれば、いつでも言語や文章を正確明瞭に理解し又解釋出來るか、又誤なく且つ立派な文章が書け、話が出來るかといふに必ずしもさうではない。前に述べたやうに、文法は、その言語の中に存するきまりであつて、之を用ゐる人々を律するものであるが、それは、もしこれに違へばその言語としてはわからなくなるか、誤解を來すか、又はをかしなものとなるやうな性質のものである。言はば、言語になるかならないかの限界をきめるものである。さうしてその限界内に於ては、言ひかへれば、このきまりに背かない範圍内に於ては、どういふ言ひ方をしようとも個人個人の自由に任されてゐる。人々はその場合場合に應じて、自分の思ふ事をあらはすに適當な語や言ひ方を選んで之を言語や文章に表はすのである。その言語をきゝ、文章を讀むものは、その言語文章から話手又は筆者がその時人に傳へようとする意味事柄を正しくそのまゝに理解すべきであるが、その場合に話手又は筆者が選んだ言語文章がいかなる文法上のきまりに據つたものであるかがわかつただけでは、話手又は筆者の意味する所のものを十分正當に理解しがたい場合がある。たとへば、文語の助動詞「べし」は、決意、想像、當爲、命令などを表はすのであつて、もしそれ以外の場合に用ゐたならば文法に背く事になる。しかし、或文章に於ける「べし」が、右に擧げた種々の意味のうち、どの意味に用ゐられたものであるかは、文法の知識だけではきめる事は出來ない場合が多い。それ故、それ以上の委しい意味の決定を文法に期待するのは無理であり不合理である。
又、文法は言語としての正しい言ひ方(即ち普通その言語を用ゐてゐる人がをかしいと感じない言ひ方)のきまりである。その言語として正常な言ひ方であれば、皆このきまりに從つてゐる筈である。しかるに我々が言語を實際に用ゐる場合には、いつも正常な言ひ方ばかりを用ゐるかといふに必ずしもさうでない。或る一つの言ひ方によつて言ひかけたが、中途で一寸考がかはつて、後の部分は他の違つた言ひ方を用ゐるといふやうな事がある。かやうな場合には時として文法に背いた言ひ方になる事があるのである。私が前に述べた混淆の如きは、その一つであつて、かやうなものを文法のきまりで解釋しようとするのは不合理であつて、もしさうすれば却つて誤つた解釋を生ずる虞があるのである。
かやうな文法に背いた言葉づかひは談話の場合に随分多いのであるが、文章を書く場合にも決して少くない。しかし、文章の場合には、讀み直して見れば氣がつくので之を訂正する故、實際世間にあらはれた文にはあまり多くないであらう。又、談話の場合でも、考へて見れば、氣がつくのであるが、談話では我々は主として意味の方に注意をむけてゐて、言葉それ自身に注意する事が少いのと、談話は專ら音聲によつて行はれるもので、その場かぎりで消えうせる爲に、あとから氣づく事はめつたにないので、我々はさほど多いとはおもはないのである。(速記を見ればわかる)。
以上述べたやうなわけで、實際の言語や文章には、文法で律する事が出來ないものがあり、却つて文法に隨つて解釋すれば誤を來すものもあるのである。そこに文法のカの及ぶ限界があるのである。それ故、文法を無用であると考へるのは誤であると同樣に、文法を非常に重んじ、あたかも萬能であるかのやうに考へるのも亦誤である。この小論が、かやうな點に注意をうながす事が出來るならば幸である。