假名遣について

 假名遣といふことは、決して珍しい事ではなく、大抵の方はご存じの事と思ひますが、さて、それではそれは全體どんな事かと聞かれた場合に、十分明らかな解答を與へる事が出來る方は存外少ないのではないかとおもひます。それで假名遣とはどんな事か、又どうして假名遣といふものが起つたかといふやうな、假名遣全般について、一通りの説明を試みたいとおもひます。

 假名遣は、元來假名の遣ひ方といふ意味であります。今日に於ては、さう考へておいてまづ間違ひがないのであります。すなはち、假名遣が正しいとか違つてゐるとかいふのは、假名の遣ひ方が正しいとか間違つてゐるとかいふ事であります。

 ご承知の如く、我國では、漢字と假名とを用ゐて言語を書く事となつて居りますが、假名遣は勿論假名で書く場合に關する事でありまして、同じことばでも漢字で書く場合は、全く之と關係がありません。しかし、假名はもと漢字から出來たもので、假名がまだ出來なかつた時代には、漢字を假名と同じやうに用ゐて日本語を書いたのでありまして、かやうに假名のやうに用ゐた漢字を、萬葉假名と申して、假名の一種として取扱つて居ります。この萬葉假名を以て日本語を書いたものについてもやはり假名遣といふ事を申すのであります。

 かやうに、假名遣は、假名を以て日本語を書く場合の假名の用ゐ方をさしていふのでありますが、元來、假名は、言葉の音を寫す文字でありますから、言葉の音と之を寫す假名とが正しく一致して居つて、その書き方が一定し、それ以外の書き方が無い場合には、どんな假名を用ゐるかなどいふ疑問の起る餘地はないのでありまして、假名の使ひ方、すなはち、假名遣は問題とならないのであります。たとへば「國」を「くに」と書き「人」を「ひと」と書くやうなのは、その外に書き方がありませんから、その假名遣は問題となる事はありません。

 然るに、違つた假名が同じ音に發音せられて、同じ音に對して二つ以上の書き方がある場合、たとへば、イに對して「い」「ゐ」「ひ」、コーに對して「こう」「かう」「こふ」「かふ」といふ書き方があり、キヨーに對して「きやう」「きよう」「けう」「けふ」といふ書き方があるやうな場合に、どの場合にどの書き方即ち假名を用ゐるかが問題となり、假名遣の問題が起るのであります。又「馬」「梅」の最初の音のやうに、之を「ウ」と書いても、又「ム」と書いても、實際の發音に正しくあたらないやうな場合、即ち適當な書き方のない場合にも、亦いかなる假名を用ゐてあらはすべきかといふ疑問が生じて、假名の用法が問題となるのであります。

かやうに、同じ音に對して二つ以上の書き方があつたり、又は、十分適當な書き方が無い場合に限つて、いかなる假名を用ゐるかが問題になるのでありまして、その他の場合は假名の用法は問題とせられないのでありますから、假名遣といふのは、その語義から云へば假名の用法といふ事ではありますが、實際に於ては、あらゆる場合の假名の用法ではなく、その用法が問題となる場合のみに限つて用ゐられるのであります。

 さて、假名遣が正しいとか間違つてゐるとか云ひますが、それは、何かの標準を立てて、或る書き方を正しいと定め、之に違ふものを間違ひとするのであります。それは何を標準とするのでせうか。

 右に述べたやうな、假名の用ゐ方について疑問が起つた場合に、之を解決する方法としては、いろいろのものが考へられます。

 一つは、同じ音に對するいくつかの書き方をすべて正しいものとし、どの方法を用ゐてもよいとするのであります。たとへば「親孝行」の「孝行」は「こうこう」でも「かうかう」「こふこふ」「かふかふ」でも「こうかう」「こうかふ」「こうこふ」「こふこう」「かうこう」「かうこふ」「かうかふ」「かふこう」「かふこふ」「かふかう」でも、どれでもよいとするのであります。つまり「コーコー」と讀めさへすれば、どう書いてもよいといふのであります。かやうなやり方では、同じことばが、いろいろの假名で書かれる事となつて、統一がつかない事になります。

 第二の方法は、同じ音を示すいろいろの書き方の中、一つだけを正しいものときめて、その音はいつもその假名で書き、その他の書き方はすべて誤であるとするものであります。コーの音に對して「こう」「こふ」「かう」「かふ」などの書き方があるうち、例へば「こう」を正しいものとし、その他を誤とするのであります。かやうにすれば、いつも同じ語は同じ假名で書かれ、假名で書いた形はいつも定まつて統一されます。さうしてどんな語であつても、同じ音はいつも同じ假名で書かれる事となります。即ち言語の音に基づいて假名を統一するのであります。語の如何に係はらず、同一の音は同一の假名で書き表はすといふ意味で、これを表音的假名遣といひます。

 第三の方法は、第二の方法と同じく、同じ音を表はすいろいろの書き方の中、一つを正しいものと認めるのでありますが、それは、同じ音であれば、いつも同じ假名で書くのではなく、これまで世間に用ゐられてきた傳統的な、根據のある書き方を正しいと認めるものであります。かうなると、同じ音であつても、ことばによつて書き方が違つて來るのでありまして、同じコーの音でも「孝行」は「かうかう」、甲乙丙丁の「甲」は「かふ」、「奉公」の「公」は「こう」、「劫」は「こふ」と書くのが正しい事となります。これは傳統的の書き方を基準とするところから、歴史的假名遣といはれます。

 どんな假名を用ゐるのが正しいかを定めるには、大體以上三つの違つた方法があるのでありまして、第一の方法は、さう發音する事が出來る假名であれば、どんな假名を用ゐてもよいとするのでありますから、特別に假名遣を覺える必要はないのであります。いはゞ假名遣解消論とでもいふべきものでありませう。之に對して第二第三の方法は、或一つのきまつた書き方を正しいとし、その他のものは誤であるとするのでありますから、特別にその正しい書き方を學ぶ必要があります。その中で、第二のは、言語の發音に基ゐて、その音を一定の假名で書くのでありますから、その言語の正しい發音さへわかれば、正しく書ける譯であります。第三のは、同じ音であつても、言葉によつてその正しい書き方が違つてゐるのであり、同じ音に讀むいくつかの書き方にはそれぞれきまつた用ゐ場所があるのであつて、どの語にはどの假名を用ゐるかがきまつてをり、又同じ假名でも、場合によつて違つた讀み方があるのでありまして、その使ひわけがかなり複雜であります。同じオと發音する假名でも、「大きい」の最初のオには「お」(「おくやま」の「お」)を用ゐ二番目のオには「ほ」を用ゐ、「青い」の二番目の音のオには「を」(「ちりぬるを」の「を」)を用ゐ、「葵」の二番目の音のオには「ふ」を用ゐます。又同じ「ふ」の假名を「買ふ」の時には「ウ」とよみ、「たふれる」(倒)の時にはオと讀みます。「けふ」(今日)の時は上の字と合して「キョー」とよみ、甲乙丙の時には「かふ」と書いて「コー」と讀みます。「急行列車」の急は「きふ」と書いて「キュー」とよみます。「う」の假名も「牛馬」の時には「ウ」とよみ「馬」の時にはウマと書いてmmaとよみます。

 今日社會一般に正しい假名と認められてゐるのは、以上三つの方法の中、第三のもの即ち歴史的假名遣であります。これは今申しましたやうに、かなり複雜なものでありまして、實際に於ては、誰でも皆之を正しく用ゐてゐるのでなく、隨分誤つた假名を書く事もありますが、小學校や中學校の教科書の類も、この假名遣を用ゐてをりますし、政府の法令の類もこの假名遣に從ひ、新聞なども、大體この假名遣により、たまたま間違ひがあつても、それは少數で例外と見るべきであり、また、多くの人々は、十分この假名遣を知らない爲、間違つた書き方をする場合があつても、その自分の書き方が正しいので、之と違つた正しい假名遣の方が間違つてゐるとは考へてゐません。又、一部の人々は、發音に隨つて書くといふ主義(即ち前に擧げた第二の方法)を正しいと主張して實行して居りますけれども、これは、現今では、只一部の人々にとゞまつて、一般には認められて居ませんから、只今のところで、正しい假名遣と見るべきものは、第三の方法によるもの即ち歴史的假名遣であるといふべきでありませう。唯、その假名遣の知識が徹底してゐない爲に、正しい假名遣がわからず、讀めさへすればよいといふので、間違つた假名遣を用ゐる場合があるといふのが現在に於ける實状であると思はれます。

 この假名遣は、かなり面倒なものでありますから、之をすべて發音の通り書く方法に改めようとする考や運動が、既に明治時代からありまして、時々世間の問題となり、現に一昨年も、この論の可否について新聞や雜誌の上で論爭がありました。しかし、將來はとにかく、今日に於ては右に述べたやうに歴史的假名遣が一般に正しいものと認められてゐると見るべきでありますから、この現に行はれてゐる假名遣について、もうすこし説明したいとおもひます。

 現行の假名遣は、江戸時代の元祿年間に契沖阿闍梨が定めたものに基づいて居るのでありますが、契冲は決して勝手にきめたものではなく、平安朝半以前の假名の用法に基づいてきめたものであります。この時代には片假名平假名が出來て盛に行はれたのでありまして、「いろは」で區別するだけの四十七字の假名は、すべてそれぞれ違つた發音をもつてをり、現今では同音に發音するをも皆別々の音を示してをりました。即ち四十七字の假名が大體に於てその當時の言語の發音を代表してゐたのであります。平安朝半以後になると、これ等の音が變化して同じ音となり、それ等の音の區別は失はれました。もつと古く奈良朝の頃まで遡ると、これ等の區別はありますが、その外に、なほ假名では區別しないやうな音の區別がありました。たとへば、「け」でも「武(タケ)」や「叫(サケブ)」の「けは」「竹(タケ)」や「酒(サケ)」の「け」とは別の音であつたと認められます。この區別は平假名片假名にはないので、假名遣の問題とはなりません。これ等の音は、平安朝に入つては同音となり、假名の出來た時代には同じ假名で書かれたのであります。又奈良朝から平安朝の極初めまでは、ア行のエとヤ行のエの區別、即ちエ(e)とイェ(ye)の區別があつたのでありますが、この區別も、假名では書きあらはされないのであります。(例へば「獲物」のエはe「笛」「枝」のエはyeでありました。)

 それ故、契沖のきめた假名遣は、平安朝の半以前の言語の發音の状態を代表するものであります。この時代には、現今同じ發音であつても、違つた假名で書くものは、違つた音であり、今は違つた音でよむものでも、同じ假名で書くものは、同じ發音でありました。それが、それ以後の音變化の結果、假名と音との間に相違が出來たのであります。犬のイは「い」(「いろは」の「い」)であり、田舎のイは「ゐ」(「ならむうゐ」)の「ゐ」)でありますが、「い」は古くはイ(i)の音、「ゐ」はウィ(wi)の音であつたのであります。それが後になつてウィ(wi)がイ(i)と變化して、どちらも同じiの音になりました。これによつて觀ますと、この假名遣は平安朝半以前の言語の發音を代表してゐるものであります。ところが、右のやうな發音變化の結果、もと違つた音が同じ音になり、又同じ音が違つた音になつたにもかゝはらず、その假名は昔のまゝの假名を用ゐるのを正しいとして之を守つて來た爲に、發音と假名との間に相違を生じ、違つた假名を同音に發音し、又同じ文字を違つた音でよむといふ事になつたのであります。

 かやうに、日本語の發音の變化は、假名と音との間に不一致を生ぜしめる原因となつたのでありまして、これがまた假名遣なるものを生ぜしめる原因となつたのでありますが、日本語の音の變化が假名遣とどういふ風に關係してゐるかを猶少し考へて見たいと思ひます。

 平安朝以前に於ても、前述べた如く音の變化はありましたが、その時代には假名遣の問題は起らなかつたのであります。これは萬葉假名のみを用ゐた奈良時代には、假名は同じ音ならばどんな字を用ゐてもよいといふ主義で用ゐられたのでありまして、平安朝に入つても、同じ主義が行はれた爲、古くは發音に區別があつても、既に同音となつた以上は同じ假名と認めて用ゐたからでありまして、かやうな時代に於ては、假名遣の問題などは全く起らなかつたのであります。

 平安朝に入つて、片假名平假名が出來て、次第に廣く用ゐられるやうになりましたが、平安朝以後、言語が次第に變化して、イヰヒ、オヲホ、エヱヘ、ワハ、ウフなどが同じ發音になり、ウマやウメなどのウもm音となりましたが、假名に書く場合には、これまで通りの假名を用ゐる事が多く、假名と發音との間に違ひが生ずるやうになつたと共に、時には實際の發音の影響を受けて發音通りの假名を用ゐる事もあつて、假名の混亂が生じ、同じ語が人により場合によつていろいろに書かれるやうになり、鎌倉時代に入るとますます混亂不統一が甚しくなりました。この時、和歌の名匠として名高い藤原定家が、この假名の用法を整理統一する事を企て、所謂定家假名遣の基礎を作りました。こゝにおいてはじめて假名遣といふ事が起つたのであります。定家卿が定めたのは、「をお、いゐひ、えゑへ」の八つの假名づかひであつて、まだ不完全でありましたが、その後吉野朝時代に、行阿といふ人が、ほ、わ、は、む、う、ふ、の六條を補ひました。

 言語の音の變化がこゝまでに及んで、はじめて假名遣といふ事が注意されるやうになつたのでありますが、音の變遷はその後もたえません。即ち室町時代までは、ジとヂ、ズとヅの區別があり、又、アウ、カウ、サウの類の「オー」と、オウ、コウ、ソウの類の「オー」と、の間にも發音上區別がありましたが、江戸時代には、この區別がなくなつて、それぞれ同音になつた爲に、これ等の假名遣が問題となるやうになりました。江戸初期以來の假名遣の書には、これ等の假名遣が説いてあります。

 その後江戸時代に於て、菓(クワ)子、因果(イングワ)などのクワ、グワ音がカ音に變じましたので、又その假名遣が問題となりました。

 かやうに音が變化して行くに從つて、假名遣の範圍がひろまつて行つたのであります。さうして今日の假名遣に於て見るやうな、いろいろな條項が生じたのであります。

 要するに、假名遣といふものは、音の變化によつて起つたもので、現行の假名遣は、或程度まで、過去の日本語の音聲の状態をあらはし、その變遷の跡を示してゐるものでありまして、ことばの起源や歴史などを知る爲には有益なものであり、古い書物その他を讀むにも必要なものであります。

 西洋の國々では主として、ローマ字をもつてその國語を書きますが、その場合に、綴字法(スペリング)といふ事があります。これが日本語に於ける假名遣に似たものであります。ローマ字は日本の假名と同じく音を表す文字であり、同じ音をあらはすにいろいろの書き方があり、どんな文字で書くかは、語によつてきまつてゐる事など今の假名遣と同じことであります。さうして、西洋語の綴りは、やはり、過去の發音を代表してゐるのであつて、その發音の變遷の結果、文字と發音との間に不一致が出來た事までも、日本の假名遣と同じことであります。たゞ違つた點は、西洋のスペリングは、どんな語に於てもある事でありますが、日本の假名遣は、假名が違つても同音である場合や、同じ文字に二つ以上の讀み方があつて、用ゐ場所が疑問になる場合にかぎられ、さうでない場合、たとへば、アサ(朝)やヒガシ(東)などの場合には全然關係がない事であります。