ふりがな論覺書

一、ふりがなの效用

一、漢字に種々のよみ方のあるのを、いかに讀むべきかを明示して、著者の欲する通りに讀者に讀ませる。即ち、著者の言葉を正確に傳へる方法である。

一、通讀を容易ならしめる。(ふりがなのある方が早く讀める事は、心理學の實驗で證明せられたと記憶する。)

一、同一の漢字を人によつて色々によんで言語が不統一になるのを防ぐ。

一、知らないものに漢字のよみ方を知らせ、又、言葉をどんな漢字で書くべきかを教へる。

以上の點から見れば、ふりがなは著者の言葉を正しく且容易に傳へるばかりでなく、漢字の正しい讀み方と使用法を教へて國語の統一に資するものである。それ故、國語を現状のままにして、振假名を全部除くとすれば、著者の欲するとは違つた讀み方をして、著者の本意に背く憂があり、又國語の統一を害する虞がある。

一、ふりがなの弊

一、一つの語を漢字と假名とで表はすので二重の手數を要する。

二、文字が細かい爲に視力を害する。

一は事實である。しかし讀むものからいへば、大して邪魔にはならない。必要のない場合にはふりがなを讀まなくても漢字だけ見ればよい。

二は、ふりがなよりも、むしろ漢字の方が問題である。近頃のやうに漢字を小さくすれば、やゝ複雜な漢字はその各部分を構成する點畫がはつきりせず、たしかに目によろしくないとおもはれる。ふりがなは小さくとも、字の形が比較的簡單で、その上違つた字の種類が少ないから、比較的よみやすい。あまり小さな漢字を用ゐない事になれば、勿論ふりがなも大きくなる。

一、以上のやうに見れば、ふりがなは、弊よりも功の方が多い。少くとも言語文章を現状のままにしてふりがなを全廢すれば、弊を生ずるおそれがある。しかし、之を節約する事は可能であらう。

一、節約するとすれば、ふりがなを除いてよい漢字は、

一、誤讀のうれひの無いもの。

二、ふりがなが無くてもたやすく讀む事の出來るもの。

たやすく讀む事が出來ると出來ないとは、その人の教育の程度によつて差があらう。普通の讀みものは、普通の教育をうけた人々の漢字の智識を標準とすべきであらうが、それでも、嚴密にきめる事は困難であらう。しかし、普通の文なら右の標準によつてふりがなを省いてよいものが、かなり多いであらうと思はれる。

一、右のやうな事情であるから、ふりがなを全く用ゐないで文を書く事とすれば、

一、誤讀のおそれある場合には漢字を用ゐない。

二、讀みにくい漢字は用ゐない。

といふことになつて、ふりがなの問題は漢字の使用制限の問題となる。さうして漢字を制限するとすれば、制限せられた漢字の代りに何を用ゐるかが問題となる。單に漢字を假名に代へたばかりでよい場合もあらうが、假名に代へては意味がとりにくくなる場合もあり、又誤解を生ずる場合もあらう。又假名ばかり多く續いては、通讀しにくくなる場合もあらう。(數年前に實行せられた新聞に於ける漢字制限の試は、今日では失敗に終つたといはなければならない)

一、以上は言語そのものには手を着けず、ただ言語を文字で書きあらはす方法についてのみ考へたのであるが、言語をそのままにせず、之に手を加へて、やさしい言葉しか用ゐないといふ事にすれば、ふりがな又は漢字の問題は、言語制限或は言語統制の問題となる。さうして右のやうな方法によつて、ふりがなの問題が全部解決するかといふに、必ずしもさうでない。

一、やさしい言葉といふのは、平生あまり用ゐないやうな耳遠い言葉でなく、國民一般に容易に理解されるやうな言葉をいふのであらうが、これは必ずしも、漢字に書いて讀みにくい言葉と同一ではない。やさしい言葉でも、漢字に書けば讀みにくい言葉もある。之を漢字で書くとすればふりがなが必要になる。もつとも、かやうな語は漢字をもちゐずすべて假名で書く事とすれば、ふりがなは不用になるが、さすれば、假名が多くなつて、讀みにくくなるやうな場合もあらう。

一、やさしい言葉で書けば、多くの國民に讀まれまた理解される。これは著者としては望ましい事である。しかし、やさしい言葉で書くといふ事は、著者としては、用語を制限せられるのである。この限られた用語で著者が讀者に傳へようと欲する通りの事實や感じを表現しようとするには、かなりの困難があり、これを克服するには多くの工夫努力を要することであらう。

一、かやうに考へれば、ふりがなの論は、單にふりがなだけに止まらず、漢字制限の問題や用語制限の問題となる。ここにこの問題の重大性があるのである。

一、私は、ふりがなの國民一般に對する國語教育上の效用を認める故に、いかなる場合にもふりがなを廢すべしといふ論には贊成しかねる。しかし普通の讀物に於てふりがなをずつと少なくしてもあまり弊を生じないであらうと考へる。

一、普通の讀物をやさしい言葉で書くといふ事は結構な事であると思ふ。これは著者にとつては面倒で骨の折れる事であらうが、その爲に、むづかしい言葉を用ゐないで、品位あり力ある數々の立派な表現法が工夫され見出されたならば、我が國語の向上發展の爲に慶賀すべき事である。

一、元來、新聞雜誌其他通俗の筆者は、自ら好むと好まざるとに係らず、言語文字の教師である。假名遣にせよ漢字の用法にせよ文法にせよ、これらの讀物に用ゐられたものは、日常國民の目に觸れて、知らず知らずの間に之に影響を及ぼす事、學校の國語教師よりも一層大なるものがあらうと思はれる。國語の向上發逹も、いかに學者が之を論じても其の效果は少く、文學者や新聞雜誌の記者が之を實行しなければ社會を動かすことが出來ないのは、言文一致の運動、即ち口語文流布の歴史が明かに之を語つてゐる。しかるに、我國の文學者や記者は多くはかやうな重大なる社會的影響を自覺せず、自己の用ゐる言語文字に對して充分の注意をしないやうに見えるのは誠に遺憾なことである。しかるに、山本氏のやうな有力なる文學者が、ふりがなの問題をとらへて、口語文の用語の平易化を提唱し且實踐を試みられたのは、我々の多とする所であつて、我々は山本氏がこの試を今後も續けられん事を希望するものである。

國語や國字の實踐上の問題については、私はまだ深く研究した事がありません。以上は唯思ひついたままを述べただけですから、素人論として御聞き下さい。