なほ、「国民講座 日本人の再建」は全五卷。
- 會田(雄次)
- ですから、コア・パーソナリティーの問題は、確かに日本人は自信がなく頼りない國民だけれども、これをスエーデン竝みに自信をもつといつたつて駄目だ。結局具體的にいへば、自衞隊が、といふより日本の軍事力が、アメリカに對してさへも一矢を報いられるといふことができれば、今度逆に──卵が先かニハトリが先きか、ぐるぐる囘りですけれども──そこのところに突破口があるだらう。つまり中国が、アメリカとの戰ひになれば、潛水艦に載せていつてニューヨークの上で原爆を爆發させてみせる。西風で市民の半分ぐらゐ殺せるといふぐらゐの氣がある。それで宣伝してゐますから。共産主義の理想もありますけれども、それが中国人のプライドの支への一つであるんです。だから日本でも核爆彈を今すぐつくれといふわけではないけれども、すぐつくれる準備、その氣になれば十發や二十發すぐつくれて、潛水艦でもつていけるといふ準備を整へて、アメリカがやつたら、こつちが滅びる前に十發や二十發はたたき込めるといふ、せめて宣伝だけでもいいからやつてもらつたら、だいぶ違ふのぢやないでせうか。
- 福田(恆存)
- 軍隊──要するに兵器にしか日本人は、日本人に限らず、人間は誇りをもてないものですか。
- 會田
- いや、兵器があつたら誇りがもてるといふんです。
- 福田(恆)
- 兵器がなければそれはもてないのですか。
- 會田
- 變な話ですけれども、刀でも安物の刀をもつてゐるとだめでせう。
- 福田(恆)
- けれども、安物の刀しかつくれないんですよ。
- 會田
- まともに戰ふことはできない。一矢報いられるくらゐですよ。
- 福田(恆)
- 向かうにかすり傷を與へられたらそれで死んでいいと思ふのは一體何でせうね。
- 會田
- それは國民意識の問題ですよ。やれるといふ氣の問題と、實際にやつてみたらそんなものは全然だめだつたといふ問題とは少し違ふ問題ぢやないでせうか。
- 福田(恆)
- 國防意識といふのは本當に國防だけからしか出てこないのかしら。
- 會田
- そこになつてくると、精神の問題になりますね。
- 福田(恆)
- たとへば、自分が日本人で日本が好きで、日本に生まれて日本を愛するといふところから出てこないで、東京タワーをつくらなければ日本の優秀性は信じられないといふ、これは世界どこでもさうなのかしら。
- 鯖田(豐之)
- さういふ氣持ちがむしろ日本をここまでもつてきたのぢやないですか。
- 福田(恆)
- それをやると、昔の戰艦大和を作らうとしたのと同じことになりはしないかといふんだよ。核兵器といふのは戰艦大和と置きかへられるでせう。
- 三島(由紀夫)
- ぼくもその點はちよつと福田さんに近ひ考へをもつてゐて、ここまで核兵器のシンボル性が高まつて、抑止力といふことだけのために核兵器がここまで象徴化されると、核兵器の意味が物體から象徴へと、だんだん年々刻々變化してゐると思ふんだ、そのときの政治條件によつて。日本がそれを見きはめてゐて、どの時點でつくるかといふのが問題で、ある時點に物としての核兵器をつくつちやつたら、そのくらゐのものはすでに物ぢやないかも知れない。それなら、象徴性といふことだけをとつつかまへて何かできないものか。つまり、核兵器のかくかうをして中身がからつぽといふものをつくつたつていいんだ。
- 福田(恆)
- できた、できたと言へばいいんだね。(笑)
- 三島
- 強盜がオモチヤのピストルでおどかしてもあんなに金をとれるものならば、おもちやのピストルをつくればいい。
- 會田
- さうですね。それはかういふことぢやないですか。福田さんがおつしやつたのは、確かに物ぢやないといけないかといふ問題提起で、私が多少答へたと思ふのは、つくれるといふ條件、可能性をつくつておく。といふことは、今の民族意識とか國民の意識のプライドの根源の一つは科學技術だと思ふんです。さうすると、日本人は核兵器だらうが超音速ジェットだらうが、何でもすぐつくれるんだ。つくらうと思へばつくれるんだといふ具體的なものが出れば、日本の技術水準、科學水準に對して非常にプライドが出てくる。だから、原爆はすぐ實際上つくれるやうにしておくといふことは、科學の水準を示す一つの具體的な例證になる。さういふ意味において、日本をよい國だといひますが、誇りをもたす一つの──一つですよ、一つの大きなもとになるだらう。いまつくれと言つてゐるのぢやない。
- 福田(恆)
- それは明治以來やつてきたことの繰り返しぢやないだらうか。
- 鯖田
- たしかに、ものをつくらうとしたこと、中でも大艦巨砲主義などは、戰爭の失敗と結びついてゐるかもしれません。けれども、ものをつくらうとしたこと自體は、別にわるいことではなくて、やはり日本人の努力目標として大きな意味をもつたと思ふのです。日本人の努力の性格といふのは、死んだつもりになつて努力することですが、ほんたうに死んだらだめなわけですけれども、それまではすばらしい力を發揮します。たとへば戰爭をするつもりになつての、あるいは戰爭に備へての努力といふものも同じで、これまた明治以後の歴史で日本を大きく前進させたと思ふんですね。これは死ぬことと一緒で、ほんたうに戰爭をしたらだめだ。つまり、戰爭には全然向いてゐないんだといふことを私、言ひたいんです。だけれども、戰爭をするつもりの努力といふのは、かなり、死んだつもりの努力と同じやうなことで……。
- 福田(恆)
- ぼくは必ず、この前の戰爭と同じ幻滅を感ずると思ふ。つまり、われわれが象徴としてつくり上げた大和があへなくだめになるといふ、さういふときが必ずくると思ふんです。
- 三島
- 左翼に對抗するには巨艦建造主義でいかざるをえないですね。モラルもなにも崩壊しちやふ。
- 福田(恆)
- それは二つあると思ふんですよ。人工衞星をつくると核爆發をやつてもいいんだといふふうにして、タブーを全部排除することが必要だと思ふんですけれども、それだけでいいのかといふことなんですね、問題は。タブーを排除して軍艦大和をつくる必要あり、といふことはいいんだけれども、それだけでかたづかない。明治以來の弱點は──要するに西洋化の成功でせう、巨艦をつくつても人工衞星を打ち上げても。ところがそれに成功したと思つたら、本家の西洋はもつと上にいつちやつてゐるわけです。いくらやつたつて、劣等感をもち續ける限り、これを排除しない限り、本當の意味の「愛國心」は出てこない。
- 福田(恆)
- さつきの話題に引き續いて言へば、日本人の誇りの源泉は、日本の傳統とか文化とかいふものでないとだめなのぢやないかといふ、さういふところから入つていつたわけでせう、いま。ぼくもさう思ふんだけれども、それは非常にむづかしい問題だし、西洋化、近代化と兩立するやうな形でそれをやつていかなければならない。
ある分野では日本は、西歐先進國を追ひ越すほどの技術の進歩ができるといふことなんだけれども、それは戰前においても、ある面では言へたわけですね、戰艦大和もさうでせう。しかし、ある意味でいふと近代化といふのは、政治、經濟、文化など、いろいろな分野が横に手をつなぎながら相聯關しながらいかなければいけないものが、ある一つの分野だけぐつと先頭を切る。それが日本では軍によつて代表されたといふ形をとるんだけれども、さういふ形でそこだけによりどころを求めていくといふのは、ぼくは非常に危險だと思ふんです。もう少し生活感情とか、さういふものの中に日本人としての落ち着きみたいなものがないと困ると思ふんです。戰爭に負けたからいままでの日本の歴史といふものに懷疑の目をもつてしまふやうでは、あぶないと思ひますね。それはどうしてなんだらうか。
- 西(義之)
- 會田先生のお話をちよつと補ふと、第一次大戰後のドイツと第二次大戰後の日本をくらべてみると、ドイツには匕首傳説がありましたね。日本の場合はないですね。戰線で勝つてゐたけれども背後から刺されたといふあれですね。しかし今度はドイツにも匕首傳説はない。
- 鯖田
- しかし戰術的に負けたんだといふ氣持ちがドイツ人にはあるんぢやないですか。
- 會田
- 零下四〇度ですか、考へてもゐなかつた寒氣がやつてきて負けたんだくらゐに、ドイツ人の主觀では思つてゐるでせうからね。
- 西
- さういふ議論はないと思ひます。むろん底邊の大衆の中に全然ないとはいひきれないが。
- 鯖田
- ヒトラーの作戰の誤ちといふことを衝くでせう。日本の場合は作戰のあやまりを衝いたつて、初めから勝ち目はなかつたんだと……。
- 村松(剛)
- それに、日本は負けズレをしてゐないから……。
- 鯖田
- 初めて負けたのが、全然勝ち目のない戰爭だつたといふんだから、二重になつてゐるわけですね。
- 村松
- ドイツの場合ですと、戰爭裁判は要するにナチだけを裁くといふことになつたわけですけれども、日本の場合は國民全體を裁くかくかうですからね。
- 鯖田
- 明治以後の歴史、それが裁かれたといふかくかうになりましたからね。
- 福田(恆)
- かといつて、明治以前に日本民族のよりどころを求めようといふ氣持ちも全然なかつたわけでせう。
- 村松
- 明治以前も惡かつた。
- 福田(恆)
- ドイツのは、近代化に對する反省ですか。
- 三島
- 反省といふより否定ですね。
- 林(健太郎)
- 日本の場合はそれが非常に曖昧なんですね。理論的ぢやない。
- 鯖田
- しかし、世界への無關心への復歸といふ形で徳川時代に戻つてゐるのぢやないですか。意識的ぢやないですけれども。
- 福田(信之)
- とにかく明治を飛び越えた感じはしますね。
- 福田(恆)
- 明治以來、西洋化一途に頼つてきたけれども、戰爭に負けたのは西洋化が足りなかつたからだ。われわれの努力が足りなかつたんだ、さういふ反應ですね。
- 西
- その邊はぼくはよく知らないのだけれども、明治以來全部惡かつたといふのは、占領軍がさう考へてゐたわけですか。それとも左翼のはうがさういふことを言ひ出したわけですか。
- 會田
- 兩方ともさうだつたんでせう。
- 三島
- ライシャワーも、ものわかりがよくなつたのはずいぶんあとだからな。
- 林
- ライシャワーの立場は一貫してゐると思ふけれども。
- 福田(恆)
- ナショナリズムといふのは内發的なものではなくて、本來、對外的な意識でせう。
- 福田(恆)
- 東洋あるいは日本が西洋にあこがれるのは、これほど東洋的、日本的なものはないぢやないかといふパラドックスでいつてゐるのではなくて、比較はいいのだけれども、比較の場合に日本人の場合常に優劣が伴つてくるのだな。それは結局自信がないからぢやないですか。
- 福田(恆)
- いまの大島(康正)さんの西洋と日本との差といふのも、これはあくまで相對的なものだらうと思ふのだ。それを相對的なものだといふ認識は大いにしなければいけないと思ふのだが、それを絶對化する傾向、惡しきナショナリズムになる傾向があると思ふのだ。
- 福田(信)
- ありますよ。私がけんかしてゐるのは、まさにその絶對的か相對的かといふけんかなんです。
……
- 福田(恆)
- 三島さんはやつぱり日本の差は絶對的なものだと思ふ?
- 三島
- 絶對的なものだけれども、相對的な世界といくらでも交流はできるとも思ふし、その點ではいくらでもインターナショナルになりうると思ふ。だけど、差は絶對的なものだと思ふ。
- 福田(恆)
- 個人といふものは絶對的なものだと。
- 三島
- それと同じことでね。
- 福田(恆)
- そこまでいけばさうなんだ。
- 會田
- 政治的とか、交際はいくらでもできるけど、體質の世界では完全に違ふな。
- 福田(恆)
- しかし、それは日本人同士でもさうだね。個人同士もさうでせう。
- 會田
- 國もさうだと。
- 福田(恆)
- それはさうですよ。しかし、個人同士でも國家を形成することができると同じやうに、日本と歐米とさう差を立てて考へる必要はない。
- 三島
- つまり福田さん、歐米と日本との差が相對的であるためには、もう一つその上に絶對的なものがなければ相對性といふものは生じないのだから、さうしたら、福田さんがそれを相對的だとおつしやるときには、すでにその兩方を相對化するところの絶對性といふものをあなたは考へていらつしやるわけだ。それは何といふわけです。あなたのお考へになる場合は。
- 福田(恆)
- ぼくのは本能的なものだな。
- 三島
- いや、日本とヨーロッパの差は絶對的な差であるといふわね。さうすると、もうそれ自體絶對的なんだから、あと考へる必要はないわけだ。ところが、日本とヨーロッパの差は相對的であると考へたり、それは當然にその二つを相對化するところの第三の絶對といふものがなければ相對化はできないわけでせう。その第三の絶對といふのは何なんですかといふのです。
- 福田(恆)
- それはだから本能ですよ。初めからさういふものだと思つてゐる。言換へれば自然といつてもいいですよ。
- 三島
- それは人類の自然、つまりあなたは人類といふものを信ずるわけね。
- 福田(恆)
- いや、自然を信ずる。日本人も、ぼくもその分枝にすぎないといふ實感だよ。
- 三島
- 自然といふ觀念だよ。全部違ふよ。この國の自然、フランスの自然、ドイツの自然、みんな觀念だよ。
- 福田(恆)
- そんなことはないだらう。やはり根源だよ。生命力の根源みたいなものだ。
- 三島
- ぼくはさうは思はないね。生命主義といふ側からみると自然は生命かもしれないけれど、人間の歴史からみた場合自然は生命ぢやない、觀念だよ。歴史の表象だよ。
- 林
- ちよつとむづかしい問題になつてきたね。ぼくは福田さんのおつしやることに贊成なんですよ。絶對的なものは何かといはれれば、それは通俗的な表現だけれども、人間とか人間性といふことですね。それは何かといへば、比べてみると違ふところがある。けれども、似てゐるところもある。その似てゐるところをつなぎ合せれば、一つの共通の人間性が出てくる。その面がかなりあるといふことですね。
- 三島
- それはかなりあるのです。かなりあるけれども、それは絶對的價値かどうかといふことになると疑問だな。
- 福田(恆)
- たとへばイヌとぼくとの間にだつて交流する面はあるのだな。ウマとでもある。だけど、その中でやつぱり人間が一番交流する面があるわけだな。その逆に、今度は交流できない面をいひだしていけば、これはもう人間といふものは、ぼくとあなたとも交流できない。女房とだつて、子供とだつて交流できない。
- 三島
- いや、そこまでいへば、人間と生物との間にワクを立てる必要はないね。つまり、人間、イヌ、ネコ、ウマ、みな竝べて佛教にしてやれば同じだからね。あなたのいふシャイナ主義をもしネガティヴに考へれば、佛教のカルマと同じだ。カルマの世界へもつていけば、カルマが自然であつても、自然はやつぱりあくまで觀念だよね。
- 福田(恆)
- 觀念といふ點は同じだと思ふのだよ。それを信ずるか信じないかといふ問題だ。
- 三島
- 結局それだけの問題なの。あなたはそれを信ずるの──生命、あるいは自然、あるいは人間。
- 福田(恆)
- ウン。
- 林
- ぼくは信ずるかといはれれば、存在を信じますな。やはり何かが存在してゐるんだから、共通のことをやつたらいいぢやないかといふ程度ですけれどもね。
- 三島
- それはごく低い次元なら信じますよ。
- 林
- それは低いといへば低い次元です。
- 三島
- たとへば、國際會議をやつてゐて、國際會議であいつはおれの顏を見てちよつと變な顏をしたな、何か感情を害してゐるのぢやないだらうか。さうするといま論じてゐる問題どうとるんぢやないだらうか──ドイツ人と日本人でもわかる。アメリカ人と話してゐても、顏を見ればわかりますよね。さういふことは共通性があると思ふ。それはごく低い次元では共通性を信ずるけど、それを相對化するところの絶對的價値といふ意味ではぼくは何も信じない。人類なんていふものは全然信じない。人間性といふものも信じない。
- 福田(恆)
- 非常に閉されたものだね。それは日本人だけがさうなつてゐて、日本人同士の間にそれを信じないといふのは、ちよつとをかしいんだよ。
- 三島
- さうだね。しかし、それは……。
- 福田(恆)
- 日本人だけは交流を感ずるのかね。日本人だつて全然だめなのがゐるもの。(笑)羽田で暴れる連中とはとても共通意識を感じない。三島さんはあぶないぞ。(笑)
- 三島
- かなり三派には共鳴してゐる。
- 會田
- この間の新聞で見ても、私は三派とはむしろ共感して、毛唐とは感じない。
- 福田(恆)
- ごく素朴ないひ方をすると、もう一度生まれてくるとすればどこに生まれてきたいかといふことになれば、ぼくは日本に生れてきたいといへばもうそれでいいと思ふのだ。──愛國心の問題、ナショナリズムの問題はさういふ單純なことでかたがつくと思ふがね。日本人のはうが近代化でもなんでも劣つてゐてもいいのだよ。だけど、もう一度日本に生まれてきたいといふことしか、ぼくは共同体意識といふものはないと思ふ。
- 三島
- 福田さん、かう考へたらどうだ。つまり、お前はそんなことを信ずるなら、日本人とはどんないやなやつでも話が通ずるが、西洋人との間には絶對のサクを置くのかといふ質問があるでせう。さうすると、ぼくは日本人との間にも正直にいつて通じないよね。さうすると、自分の考へてゐる價値といふものがどんどんどんどん求心的になつていくわね、あなたが遠心的になるのと反對に。求心的なものと自分とを同一化してしまへば、どんなにラディカルになるかわからないわね。しかし、ラディカルにならないまでも、その求心的なものの價値と、自分がさういふものをキャッチできるプリヴィリッジといふのは、日本人だからさういふものをキャッチできるプリヴィリッジがあるので、もしぼくがアメリカ人だつたら、ぼくが信ずる價値へ到達できないだらうと思ふのだ。日本人であるからこそ、ほかの日本人はいやなやつでも、つまりさういふ日本といふものの求心的に求められたあるヴァリューに自分は少なくとも到達できるプリヴィリッジをもつて生まれたのだと、そこに日本人としての先天性と誇りがあるのだといふふうに感ずるわけだ。どうだアメリカ人がいくらでかい顏をしたつてここまでこられないだらうといふものを信ずるわけだ。
- 福田(恆)
- それはぼくも信ずるよ。
- 三島
- そこにぼくは價値を置くわけだ。さうすると、あなた方は、アメリカ人もこられる、日本人もこられると。
- 福田(恆)
- そんなことは絶對ない。
- 三島
- だけど人類といふのはさういふ考へだよ、だれでもこられるといふ。つまり、いくつかの道がクロスして、まん中にプラザ(広場)がある。それを信ずることだらう。
- 福田(恆)
- それは信ずるプラザ(広場)があるけれども、そこに暮らすことはできないわけだ。
- 三島
- そこは暮らすことができないといふ點では同じなんだよ。つまり、日本といふものを求心的な價値の中で毎日暮らしてゐたら、それは朝から晩までみそぎしてゐなければならんかもしれないし、さうはやらないで洋服着てゐるんだからね。だけど、その價値に對してアプローチする求心的特權が自分にはあるんだといふところによりごのみがあるんだな。
- 福田(恆)
- それは面白いよ。それならぼくも同じだ。
- 三島
- それは一つのインターナショナルな立體面を考へると、その上のはうにかじりつくか下のはうにかじりつくかの問題の差だよ。人類の人間性といふのは下のはうにあるんだよ、下水だよ。おれの考へるのは上のはうにあるんだよ。(笑)
- 福田(恆)
- おれのはうを下にしたわけだな。上水道と下水道か。(笑)
- 三島
- 下水道が人類の人間性だよ。上水道がおれの考へるサムシングだよ。
- 福田(恆)
- 上でも下でもいいけれども。
- 三島
- それはひつくり返せば上と下と逆になるからな。
- 林
- ぼくなんかどつちがいいか知らないけれども、三島さんのいはれる下のはうがよりいつそう生きていく上に大事で、藝術的仕事に携はる人は別かもしれないが、われわれ俗人だと、三島さんのいはれる上ばかり氣にしてゐたら生きていけないですね。下のはうをやつたはうが、日常生活においては樂ですね。
- 三島
- まあ妥協していへば、下も上も兩方あつたはうがいいといふことです。
- 福田(恆)
- セントラリゼーションとディセントラリゼーションと兩方あるわけだよ。
- 三島
- あなたは下水道を強調したから、ぼくは上水道を強調したわけだ。
- 福田(恆)
- ぼくはいつも兩立させたいんだよ。
のちに福田氏はこの對談を囘想して、『全集』第6卷「覺書」にかう書いてゐる。
(略)……私は三島に「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐるでせう」と、まるで不義密通を質すかのやうな調子で決め附けられたことがある。……(中略)……講座の名稱が「日本人の再建」であり、座談會が「現代日本人の思想」といふからには、どう考へても三島はそれを良い意味で言つたのではなく、未だに西洋の亡靈と縁を切れずにゐる男といふ意味合ひで言つたのに相違ない。……(中略)……私には三島の「國粹主義」こそ、彼の譬喩を借りれば、「暗渠で日本に通じてゐる」としか思へない。……(中略)……文化は人の生き方のうちにおのづから現れるものであり、生きて動いてゐるものであつて、圍ひを施して守らなければならないものではない、人はよく文化と文化遺産とを混同する。私たちは具體的に「能」を守るとか、「朱鷺」を守るとか、さういふことは言へても、一般的に「文化」を守るとは言へぬはずである。
福田氏と三島氏は、「鉢の木會」を作つたり、共に「聲」の同人であつたりと、それなりに仲が良かつた。しかし、二人は必ずしも意見が一致してゐない。と言ふよりも、根本的なところで意見の對立があつたやうに思はれる。
福田氏がいや、自然を信ずる。
と發言してゐる事については、『人間・この劇的なるもの』や『藝術とはなにか』、或はロレンス『默示録論』を參照する事。
松原正氏が福田氏追悼の文章で先生も矢張り神道の信者だつたのだと思ふ
と述べた事がある。これに佐伯彰一氏が注目し、『日本を思ふ』解説で指摘して、福田氏の思想について「ロレンスから神道へ」と云ふ言ひ方をしてゐる。しかし、松原氏の語るところによれば、神道
と言つても、國家神道とか神社神道とかの神道を指して言つたのではないとの事。追悼文では「名附けられないもの」としての「自然」への「信仰」が福田氏にあつた、と云ふ事を述べたに過ぎない、との事。
また、「絶對の觀念が日本にはあつたか」と云ふテーマで松原氏と議論をして、福田氏は「日本には天があつた」と述べたと言ふ。しかし、その時の表情は、福田氏が物を言ふ時のものとしては、一番自信がなささうなものであつた、と松原氏は講演で報告してゐる。