公開
2003-12-08
最終改訂
2008-06-12

福田恆存『解つてたまるか!』

概要

内容

ストーリー

主人公の村木は、貧しい寒村に生れ、犯罪者の子供として差別を受けて來た。優れた銃の腕を持つが、さうした差別の所爲で遂にオリンピックに出られなかつた。今、彼は、人を殺し、人質をとつて立籠つてゐる。ライフルと爆彈で武裝してゐると云ふ。

村木を相手に、警察は説得を試み、文化人と呼ばれる人々もまた對話しようとする。しかし巧みな話術を用ゐる村木に彼らは飜弄される許りであり、一向に事態は進展しない。反體制的な學生運動家は村木に接近をはかる。さうした中、人質の中から、村木に心醉する者すらも現れる。

ところが、原子力研究所にゐたと稱する村木の素性が暴かれる。研究所の守衞であつたに過ぎないと云ふのだ。斯くして村木は「周圍の評價が急落する」事になる。だが、彼は、さう云ふ立場だからこそ手に入れられるものがある、と言つて、手許に原子爆彈がある事を曝露する。村木は人質を解放し、原子爆彈を爆發させると最後の脅しをかける。

市民は避難し、街から人影が消え失せる。主人公はただ一人、朝日を浴びながら、人間のゐない都會を眺める。「清潔な自然」の中で、主人公はライフルにより自殺を遂げる。

ひとこと

金嬉老事件に觸發されて書かれた御芝居だが、内容は現實の事件と全く關係ない。主人公は最後に死ぬが、話の流れから見て明かに道化である。よつて御芝居全體としては喜劇となる。

が、道化であるのは一面の事でしかない。主人公が抱へ込んでゐた「何か」の存在がこの「解つてたまるか!」と云ふ御芝居では強調されてゐる。それは主人公が「原爆」と稱したものであり、最後に贋物である事が、觀客には明かにされる。だからこそ、この御芝居は喜劇以外の何ものでもないのだが、贋者の「原爆」が、しかし、ただの「はつたり」の域を超えて巨大な影響力を持ち、現實に大量の人間を動かす。さう云ふ人間達に、主人公は、安直に崇拝され、また簡單に見下される。福田恆存が後に囘想して、ラストシーンにおける主人公・村木の人間への呪詛について述べてゐる。

福田氏自身と主人公とを同一視すべき理由はなく、寧ろ――例へばこの文章を書いてゐるサイト制作者の野嵜のやうな餘りまともでない人間と、この村木とは、重ね合せて考へる事が容易に出來る。發言それ自體よりも、素性・立場・門地・その他によつて、屡々人は他人を判斷する。福田氏ですらも相當の非難・誹謗・中傷を蒙つてゐたのであるが、「贋者の論客」に對してはさらに意地の惡い攻撃が待つてゐる。

世間の人々に愚弄され、飜弄された村木は、復讐を試みる。その復讐は巧く行く筈がないものであり、村木の試みは失敗する。その失敗は、初めから判り切つた事ではあつた。理性的に言ふならば、主人公の行動は咎めるべきものである。だが、一方で、その主人公の「失敗」を、主人公自身の責任として、單純に咎める事は――さうしようとする人々に對しては、豫め「解つてたまるか!」と云ふ文句が用意されてゐるのである。

村木のやうな人間の存在を、我々は單純に否定し去つて濟ませて良いものであるか否か。或は、彼の呪詛を我々は無視してしまつて良いものであるか否か。村木を褒めたり貶したり――我々の輕佻浮薄な態度は、村木が犯罪者であると云ふ事實の爲に、免責されるものであるか否か。


ニーチェ『善惡の彼岸』より

偉大へと努力する人間は、彼の行路の上に行きあふすべての人を見做して、手段か、障碍か、妨碍とする。あるいは――一時的な安息の床とする。彼がもつて生れた同胞への氣高き慈愛は、ただ彼が頂きに逹して支配するに及んで、はじめてゆるされるものである。それまでは彼は性急であり、自分はつねに喜劇を演ずべく宿命づけられてゐるといふ自覺をもつてゐる。なんとなれば、戰鬪もまた喜劇であり、すべての手段が目的を覆ふがごとくに、眞の目的を覆ふものであるから。かくて彼にはいつさいの交際が破壞される。かかる種類の人間は、孤獨の何たるかを知り、また孤獨がいかなる毒を含んでゐるかを知る。

福田氏は、ニーチェを讀んでゐた――「獨斷的な、餘りに獨斷的な」のやうなタイトルを見れば明かだ――し、自己欺瞞と云ふ事を屡々問題にしてゐる邊、案外強い影響を受けてゐる。ニーチェはD.H.ロレンスとともに、アンチキリストであり、近代に至るまでのヨーロッパの傳統の一面に對して強い反感を抱き、「反近代の思想」の系譜に屬する。

『善惡の彼岸』は、この「解つてたまるか!」との間に直接の關係はない。けれども、内容的に全面的に無關係と言ふ事も出來ず、上の引用のやうな「如何にも關係がありさう」な一節を見出す事が出來る。

ロレンスは死ぬまで正常であつたが、ニーチェは異常を來した。發狂の原因は病氣であるとされるが、以前からの思想自體に異常なところがあり、既に『善惡の彼岸』でも自尊への傾斜が見られる。

近代への抵抗とその超克は現代における重要な問題だが、それに關つた人は屡々常軌を逸する。福田氏はロレンスに據つて最後まで健全さを維持し得た。しかし、何にも據らない危險を知つてゐた筈で、多くの戲曲で精神の健康を失つた人物を描いてゐる。他人事ではないと思つてゐる。

參考