喜劇二幕五場。初出は「演劇」昭和二十七年一月號。同年十一月、文學座で上演、池田書店から單行本を刊行。
昭和二十八年、第四囘讀賣文學賞を受賞。同年六月、角川書店版『昭和文學全集』に收録された。昭和四十二年には講談社版『日本現代文学全集』に收録された。
「悲劇喜劇」千九百五十三年一月號には、山口久吉の劇評が掲載され、各新聞の評が轉載されてゐる。
T.S.エリオット「カクテル・パーティ」のほか、J.M.サーバーの寓話等を下敷に使つてゐる。
吉田健一が『東西文學論』で以下のやうに述べてゐる。
何れにしても、日本の現在の文學を凡て現代文學と考えることに根本的な間違いがあることはどうにもなるものではない。その間違つた水準に從つて、力作だの大作だのが決められる。併し文學作品に對する我々の感覺は觀念ではごまかされないから、文學と、現在の日本で文學だということになつていることは決して一緒になることがない。その一例として、この一、二年間に色々な小説が授賞されたり、ベスト・セラアになつたり、批評家に褒められたりしたが、所謂、創作の分野で現代文學の作品の名に値するのは福田恆存の「龍を撫でた男」という喜劇だけである。
この芝居にはじつは三つの下敷があります。それは三つの作品のシチュエイションをまねたといふことです。飜案とすべきかもしれませんが、それではわたくしの良心が許しません。あんまり種あかしをすると、作者のオリジナリティーを疑はれる心配があるので、こゝにはそのうち、いちばん罪の輕いやつを申しあげることにします。みなさんのうちにはエリオットの「カクテル・パーティー」の幕切をおぼえてゐるかたがあるかもしれませんが、わたくしは「龍を撫でた男」の第一幕をそこからはじめたらどうなるだらうかと思つて筆をとりました。もちろん、日本はクリスト教國ではありませんので、登場人物の性格や役割は當然ちがつてまゐります。わたくしはライリー卿とエドワードとを同一物にしてしまひましたし、殉教者シーリアを喜劇化してしまひました。「カクテル・パーティー」の精神病醫は落ちついたものですが、「龍を撫でた男」のそれは、最後に氣が狂つてしまひます。どうも困つたことですが、やむをえませんでした。わたくしにはこれをまともな演劇の形式美にまで高める力がないようです。
下敷はエリオットの「カクテル・パーティー」といへるかもしれない。下敷といふほどでもないが、もしあの「カクテル・パーティー」の終幕で幕が開いたらどうなるか、またクリスト教の信仰のない私たちだつたらどうなるか、さういふことに私の著想はあつた。……なにも人の作品を下敷とする必要はないではないかと言はれるかもしれないが、それは私の好みである。いや、好み以上のものである。私の文學論、ことに戲曲論において、下敷の必要はかなり本質的なものである。