平安朝以前の文獻(萬葉假名)には儼然たる規則性がある事は研究の結果明らかになつてゐる。契冲の「和字正韻」、奧村榮實の「古言衣延辨」、そして石塚龍麿の「假字遣奧山路」の三著が江戸時代の萬葉假名の研究としては代表的なものである。萬葉假名研究には他に草鹿砥宣隆「古言別音鈔」、「假名大意称」「萬葉用字格」等がある。
後、橋本進吉博士の萬葉假名研究によつて、8世紀當時に現代とは異る音韻體系が存在した事が明かになる。この音韻體系を「上代特殊假名遣」と呼ぶ。これは「假名遣」と呼ばれてゐるものの、今普通に云ふ假名遣とは意味合ひが異る。一つの音節を表記するのに複數の假名の中から一つの假名を選んでゐるかのやうに見えるので、「假名遣」と呼馴らはされてゐるだけの話である。「上代特殊假名遣」は、當時、音節の辨別が存在した事實の表記への反映であらう、と考へられてゐる。
記紀以降の文獻には(或は記紀にすら)、その表記に混亂が見られるやうになる。萬葉假名の名の元になつた萬葉集では、後になつて編纂された卷に、一部の音韻が失はれた爲生じた混亂が存在する。
しかし假名遣は表記の混亂の意識が生じてはじめて必要となる。混亂のない或は混亂の意識の無い時代に假名遣は存在しない。日本人は定家以前、混亂を混亂と意識しなかつた。當時、假名遣が問題とならなかつた所以である。