「正しい」HTMLを否定したがる人が屡々「W3Cの勸告は絶對に正しいのか」と尋ねるのは奇妙である。彼等に問返したいのだが、W3Cの勸告が絶對に正しかつたら、それに從ふとでも言ひたいのか。彼等は「本當に正しい」HTMLを、我々よりも切實に求めてゐるかのやうである。
「絶對的に正しいもの」が手に入らない、だから彼等は渾沌としたHTMLもどきで我慢してしまふ。これは私の目には、單なる潔癖症にしか見えない。「完全な正義を、さもなくば無秩序を」と云ふ「あれか、これか」の選擇は、極端過ぎる。
惡いものと、それよりは増しであるものとがあつた時、「増し」な方を選ぶのは、不自然な事であらうか。「増し」なものが「完全ではない」からと言つて、「惡い」ものを選んでしまふのは、まともな行爲であらうか。
問題は、或目的を達成するのに、どのやうな手段がベターか、と云ふ事だ。StrictなHTMLが「絶對に正しい」のか、と問はれれば、「さうではない」と答へざるを得ない。だが、少くとも、渾沌としたソースよりは整然としたソースの方が増しであらう。そこに「美學」の影を見て取りたければ、取れば良い。
その「整然としたソース」を書く事を、私は奬めてゐるだけなのである。結果としてHTML文書がStrictなものとなる、と云ふだけの話なのである。「宗教的」と云ふ指摘は、その限りに於て正しい。
ただ、「正しいHTML」に對する批判では屡々、美學に於る「宗教的」が、即座に「押しつけ」の意味の「宗教的」に轉化される。これは「聯想ゲーム」であり、「聯想ゲーム」は論理ではない。「聯想ゲーム」を平氣でやるのは、日本人の缺點の一つである。閑話休題。
人は完璧なHTML文書を常に記述出來る譯ではないにしても、常により良い文書を作らうとすべきではないか。そして、自己の怠慢の責任を現實に押附けるのは、「俺が惡いんぢやない、社會が惡いんだ」と言ふのと同じではないか。それは「逃げ」でしかないのではないか。
「初めに仕樣ありき」が私の主張ではない。「より増しな書き方を求めれば、仕樣に行きつく」と云ふのが私の主張である。そして、惡しきプラグマティズムではない價値判斷を、私は求めてゐるだけである。
もう一つ、考へておきたい事がある。「正しいHTML」への批判では、「實際のウェブデザインの現場を見れば、正しいHTMLを追求したつて仕方がないではないか」と云ふ意見を屡々目にする。
この意見は、實用性を盾にとつてゐるから、多くの人には非常に強い説得力を持つ。だが、この意見には幾つかの問題點がある。次の二つの疑問を、この意見に對して私は覺える。
既存の「ウェブデザイン」は、ブラウザ標準のスタイルを利用したものに過ぎない。「正しいHTML」を志向する場合、文書の整形はCascading Style Sheetsに一任する事になる。Cascading Style Sheetsは、既存の「ウェブデザイン」を超えた、高度な見ばえを實現する爲に開發されたものである。
Cascading Style Sheetsにデザインの記述を分離する事で、HTML自體のコーディングは樂になる。この結果、HTML文書によるサイトコンテンツの充實をはかれる。充實したコンテンツを持つサイトは、デザインだけのホームページよりも多くの閲覽者から支持されよう。
しかし、「それでは正しいHTMLを追求してみよう」と制作者が考へたとしても、即座にその制作者は良いサイトを制作出來る譯ではない。ただ單に、サイト制作者が標準に從つたからといつて、そのサイトが常に良いサイトとなる譯ではない。ここに陷穽がある。
我々は、「HTML 4.01 Transitional準據」を謳つたサイトを見てゐる。例のW3Cのバナーを、麗々しく飾つてゐる「ホームページ」を知つてゐる。だが、その「ホームページ」のソースは、多くの標準に從つてゐないサイトのソースと大差がない。渾沌としたスパゲッティ状態のソースでも、エラーさへなければ、Validatorは「正しい」と「御墨附き」を呉れる。
「正しい」にも、幾つかのレヴェルがある。今擧げた「ホームページ」の「正しい」は、單に「規格に適合してゐる」と云ふだけの事でしかない。形式的な「正しさ」に過ぎない、と云ふ事である。
追求すべき「正しいHTML」は、この程度のものであってはならない。單なる形式主義に陷つてはならない、と云ふ事だ。
「正しいHTMLの追求」で、重視されるべきは「正しい」と云ふ部分ではなくて、實は「追求」の部分でなければならない。「正しい」は相對的であり、常により良い方法はある筈だと考へねばならない。ただ、「W3Cの勸告にかう書かれてゐます」と言へば良い、と云ふものではないのだ。