Internet ExplorerかNetscape Navigatorでウェブサイトを閲覽。とある「デザイン」系のサイトを見に行つた時の話。
「トップページ」を見ると、[Enter]と云ふ「ボタン」があつて、そこをクリックすると、小さなウィンドウが表示されて、そこにコンテンツが表示された。
リサイズは不可。メニューバー・ステータスバー等は非表示。ウィンドウの中で、完全に「自分の世界」を作つてゐる。
これを「こじゃれたサイト」と稱するのであらうか。私はかう云ふサイトが嫌ひだ。
私が「嫌ひ」と言つた瞬間に、それは野嵜の「感情的な反撥」ではないか、と云ふ反論が、當サイトの常連さんの頭の中には自動的に生成されるだらう。だが、私は感情的な反撥を覺えた次の瞬間に、感情の分析に取掛る。感情は、必ずしも常に非論理的であり、説明不可能なものである、と云ふ譯ではない。言歸正傳。
なぜ私は、この「小さなウィンドウ」に「自分の世界」を作るウェブマスターに反感を覺えるのか。答は極めて簡單である。まさに「自分の世界」を作つてゐるところが氣に入らないのである。ウェブマスターが個性を發揮しようとしてゐる事自體が氣に入らないのである。
オペレーティングシステムが操作方法の體系であり、プログラムがOSの作法に從つてゐる時、ユーザはそのプログラムを快適に使ふ。いかにプログラマが工夫して、獨自に「使ひ易さうな操作方法」を實裝してゐようとも、他のプログラムと調和の取れない「自分の世界」をそのプログラムが作つてしまつてゐる時、より一般的なOS共通の操作方法に慣れたユーザはそのプログラムを「使ひづらい」と判定するだらう。
「小さなウィンドウ」に覺えた反撥は、さう云ふプログラムへの反撥と同種のものである。「小さなウィンドウ」の中で、獨特のナヴィゲーションを實現してゐるウェブマスターから、閲覽者である私は「慣れない操作方法」に從ふ事を迫られて、困惑してゐるのである。
「ウェブマスターは閲覽者の自由を少からず奪ふ」と言はれる事がある。間違つた認識とは言へないが、その認識がテーゼと化した時、正しくない意見となるだらう、と、私は思ふ。
TVや映畫ならば、どんなに「個性的」で獨特であつても良からう、「自分の世界」であつても良からう。鑑賞者は操作しないからである。
しかし、ウェブは映像作品ではない。
インタラクティヴであるとは、鑑賞者即操作主體と云ふ事である。操作が鑑賞の「妨げ」となると云ふ事實を、かつての「マルチメディア」クリエイターは認識しなかったが、今のウェブマスターも屡々認識しない。
その操作を、出來得る限り無意識に、即ち「慣れ」によつて「妨げ」と認識しないやうにするのが、操作體系の統一、即ちOSの使命であつた。然るにウェブでは、操作體系を混亂させる事に意義を見出すクリエイターが多過ぎる。
「個性」と云ふ迷信。
あなたは、「個性」と云ふ名の壁を求めるのか、「普遍」と云ふ名の價値を求めるのか。何が重要なのかを、ウェブマスターはよく考へるべきである。
視覺メディア向けのUser Agent(ブラウザ)でも、OperaやMozilla Browser/Netscape 6/Netscape 7が、「勝手にポップアップウィンドウを開かない」やうに設定出來るやうになつてゐます。
「IBMホームページ・リーダー」のやうな「讀み上げブラウザ」の場合、話はややこしくなります。