原稿を書く際には原稿用紙の「正しい」使ひ方があり、校正をする際には「正しい」校正記號の使ひ方がある。或は、言葉遣ひにも「正しい」と言はれるものがある。
圍碁にも將棋にもルールがあるし、その規則の中でさらにまた定石があり戰法が成立する。「左側通行」を守らなければ車は道路を走れないし、「赤は止まれ」に從はなければ人は車にはねられるかも知れない。
「これらの『正しい』やり方とか規則とか言はれるものが、本當に正しいものなのか」と詰問されれば、「疑へば切りがない」と云ふ答へ方しか出來ない筈だ。それはさうである。社會的な取決め事は、所詮取決めであつて、無秩序な自然の上に築きあげられた人工物でしかない。
しかし一方で、上に擧げた取決めが現在、社會的な取決めとして有效に機能してゐる事實は、誰もが認めるところであらう。ここで勘違ひして欲しくないのだが、「それらの取決めは、社會を構成する多くの人が支持するから正しいのだ」と云ふ説明は、表面的なものでしかない。必ずしもそれで、社會的な取決めの本質を十分に説明してゐるとは言ひ難い。
將棋の駒には王飛車角行以下8種類があり、銀以下は敵陣に入る事によつて成金となる。駒は取つたり取られたりする。さうした複雜で非合理的な規則が將棋には存在するが、その結果として將棋では、勝れて一貫した對戰が成立する。
この「一貫性」とは、論理的な一貫性を指すのだが、ここでアリストテレスの形式論理學について觸れておかう。
それぞれの學問は、一群の眞理によつて構成された一つの體系であり、そのやうな體系に屬する眞理は二つの範疇に分けることができる。まづ第一の範疇に屬するのは有限個の眞理群で、それらはどの一つも他の眞理から導出(證明)することはできない。それに對して、第二の範疇に屬するのは無制限個の眞理群で、それらは全て第一の範疇に屬する眞理から導出することができる。このとき、われわれは第一の範疇に屬する眞理を公理、第二の範疇に屬する眞理を定理と呼ぶことができ、アリストテレスは學問を公理體系と定義したと捉へることができる。
この形式論理學がユークリッド幾何學を生み、西歐學問を成立せしめてゐる事は、何人も否定出來ない。そして、西歐由來の近代社會と云ふものは、この形式論理學の社會に他ならない、と云ふ事も否定出來ない。
法にしても、イデオロギーにしても、證明不可能な信念や、合理的な根據を見出せないただの取決め事を「公理」として、そこから「定理」を引出し、法體系や思想體系を成立せしめてゐるのが近代社會である。
結局のところ、或物事が合理的か不合理かは、その根據自體には必ずしも意味がない、と云ふ話である。もちろん、出發點が間違つてゐれば話は別だが、間違ひが絶對的に證明出來ない地點から出發してゐる限り、その思想・取決めは否定出來ない。
そこでその思想や取決め事の價値をいかに判斷するか、だが、「いかに一貫した體系となつてゐるか」「いかに破綻のない體系となつてゐるか」以外に方法はない。根本となる「公理」から、いかに適切に「定理」を引出してゐるか、が問題なのである。
體系化された思想も、根本的な部分で「超合理」の世界に入ってしまふものであり、そこに「宗教的」な論爭がはじまる機縁がある。それは重々承知してゐる。
正に「信ずる者は救はれる」の世界だと云ふ事になるのだが、我々人間は、いかなる社會に於ても宗教から逃れる事は出來ない。近代社會がキリスト教社會である事を、キリスト教の傳統を持たない日本人は意識しないが、宗教を意識しないからと言つて、そこに宗教が存在しない譯ではない。
ただ、意識化する事によつてのみ、人は對象物との距離を見定める事が出來る、と云ふ事だけは指摘しておきたい。意識的に宗教的である時にのみ、人は宗教と一定の距離を置く事が出來る。宗教を意識の外へ追ひやる事で、宗教をなくす事は出來ない。
HTMLの話に戻る。「正しいHTML」とは何か、と云ふ、本論のテーマに戻る。
まづ、「私のHTML論」の出發點として、私は「はじめにテキストありき」を措定してゐる。上記のやうに、「HTMLの體系化」或は「體系的なHTML」に關する議論を私はしてゐるので、「はじめにテキストありき」の是非を問はないで貰ひたい。
そして、以下の大前提は全て恣意的な決定であるが、「HTMLの仕樣」を見れば、誰もがこれらが大前提として措定されてゐる事實を認めるだらう。
飽くまで「はじめにテキストありき」は私(野嵜)による措定である。これは「私のHTML論」を構築する上で、他の「HTML論」と差別化する爲に導入した假説である。ただ、この假説を原點にHTMLの體系化が可能であるならば、この假説は妥當性を認められて然る可きだと思ふ。
そして、少くとも「ブラウザでの見映え」を前提とした「HTML論」よりは、私の「はじめにテキストありき」の説の方が、HTMLを一貫した體系として、うまく説明してゐるのは事實であらう。
要は、「HTMLの傳統」や「HTMLの仕樣の随所に見られる思想」を破壞する事なく、HTML全體を破綻なく説明し、整合性のある利用の仕方をしたい、と云ふのが私の希望なのである譯だが、それは確かに「宗教的」であらう。しかし、「傳統がどうした」「整合性など不要」と批判を投げかけるのだとしたら、それは「宗教以前」のものである。
嚴格な思考を忌避するヒューマニズムとは、文化を裝ふ野蠻にすぎない。
「宗教」は人間しか持たないものである。物事に對して意識的になるのは人間のみであつて、動物は全て無意識の中に生きてゐる。然るに、人間に無意識的な生き方を強要するのは、人間を動物に貶しめる事であつて、私はそれに贊成しない。
私は、人間の態度或は人間の生き方を問題にしてゐるのである。「たかがHTML」と言ふ勿れ。眞實は些事に宿る。
もつとも、「HTMLでは中身が大事」と云ふ通説から「大事であるなら、中身は既に用意されてゐる筈」と言へるだらうし、その中身がテキストであるならば、「はじめにテキストありき」と云ふ假定は必ずしも假定とは言へなくなる。さうなると、「はじめにテキストありき」から出發した「私のHTML論」も、決して單なる「宗教」とは言へないだらう。
簡單に言ふと。
- 正しい
- 道理や法にかなつて、誤りが無い。「──行ひ」「──答」
- きちんとしてゐる、整つてゐる。「──姿勢」
私は「2」の意味で「正しい」を使つてゐる。「それは本當に正しいのか」と云ふ指摘をする人々は「1」の意味で「正しい」を使つてゐる。この時點で、話はすれ違つてゐる。議論が噛合はないゆゑんは、常に用語法の違ひ。
言葉の用ゐ方に人々がもつと意識的になれば、不毛な議論は確實に減る。