公開
2002-04-29

2002-04-29

サイトで公開した文書に批判のメールを貰つた時

一般に、私信を發信者に無斷で公開してはならない事になつてゐます。しかし、「個人」が「個人宛」に發信したからといつて、一概にその通信が私信であると言ふ事は出來ません。

『論争必勝法』(谷沢永一著・PHP)で、谷沢氏は「私信」を堂々と公開してゐます。

谷沢氏の「明治中期文藝思潮研究の展望」は「國文學 解釋と教材の研究」(昭和36年12月20日・7卷1號)に掲載された。この論文を含む3篇の論文は、學界から殆ど默殺されたが、雜誌の編集部に壓力がかかり、掲載がストップしました。谷沢氏は、壓力がかかつただけで論爭が起らなかつた事を殘念に思つてゐると云ふ風に書いてゐるのですが、「僞惡的」に自分の罵詈雑言を自慢してゐるやうにも見えます。閑話休題。

谷沢氏に批判された「研究者」の殆どが「政治的」に巧妙な工作を行つた中で、野村喬氏だけが直接、谷沢氏に手紙を送つてゐます。その手紙を、谷沢氏は公開しました。

 けれども、ただひとりオッチョコチョイが現われ、私を何も知らぬトボケた田舎者と見て、愚かな手紙を寄越した者がいる。文中に登場する野村喬がそのピエロである。それまで彼とはもちろんなんの交渉もない。

 事の次第はこうである。「明治中期文藝思潮研究の展望」が出た直後の昭和三十六年十二月二十四日、それまで個人的関係の絶無であった東京都豊鳥区西巣鴨一ノ三三一九大和荘の野村喬から、当時は兵庫県宝塚市米谷字蔵ノ坪五八に住んでいた私あてに、十二月二十一日付けで十二月二十二日消印の便箋四枚にわたる書簡が舞い込んだ。この手紙はたまたま一応は私信として発送されたとはいえ、まったく赤の他人である私という相手へ一方的に送達されたのである上、発信人受信人相互間において合意的に秘匿すべき道義的機密事項など寸毫も介在せぬこともとより言うまでもなく、内容文面論旨語調発想意図のあらゆる面において、私をその末端の一員とする世の日本文学研究者全員すべてに対する正面切って堂々たる公開状・宣言文・説諭・論告・威嚇・脅迫・恫喝・嘲弄として起草された公的意義を担う文書であると判断せざるを得ないため、以下にその全文を一字一句誤またず引用して、昭和三十年代中葉におけるひとつのささやかな学界史的記録とする。と、まあ正面切って挨拶するほどのことでもないが、地方に住む者がどれほど馬鹿にされナメられていたかを物語る証拠とはなろう。その文面は次の如くである。

自分の氣にいらない事を言つてゐる人間に、「私信」と稱して、批判的、時に恫喝的なメールを送りつける人がゐます。さう云ふメールは、上の谷沢氏の論理で、「私信ではない」と斷定出來る場合が多々あります。その場合、そのメールを公開して反論する事に、道義的・法的な問題は全くありません。さもなくば、「私信」と稱した文書によつて嫌がらせを受けた場合、その嫌がらせに立向かふ術が「被害者」には存在しない事になつてしまひます。


もちろん、議論の爭點とは全く關係のない、全く個人のプライヴェートに關る内容を、嫌がらせ目的で公開すれば、法に觸れます。法に觸れる事は絶對にやつてはなりません。

しかし、法は多くの人の思つてゐる程、單純明快に物事を割切つて、一方の人間に都合良く解釋されるやうには作られてはゐません。法を惡用しようとしても、さうさう法に拔け道はありません。「私信」と自稱したからといつて即その通信が私信と認定される程、法は甘くありません。

裏工作と云ふ陰濕な攻撃に、裏工作の曝露と云ふ手段で反撃する事は、批評權の一環として當然許される事です。その手の裏工作を好む人間は「あいつは私信のメールを無斷で公開した」と云ふ「レッテル貼り」で再度攻撃して來ますが(大概、大騷ぎする)、公開された時の事を豫期してその人は「私信」と稱してゐたのですから、そのメールは私信ではありません。


強調しておきますが、メールに私信は存在しないと云ふ事ではありません

時と場合によつて、メールの性質は變化します。その性質は、簡單に決定出來るものではありません。メールを書いた本人ですら、そのメールの性質を決め附ける事は出來ません。勿論、受取つた人間が勝手にメールの性質を決定する事も出來ません。だから、論證と云ふ手續きが必要になります。

要は、きちんとした根據を擧げて、そのメールが私信ではなく、それを公開する事によつて公共の利益となる、と云ふ事を説明出來れば、そのメールを公開しても大丈夫、と云ふ事になるのであります。單なる私怨のみに基いて、批判のメールを公開してしまつてはいけません。