制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-08-27
改訂
2008-06-11

サイトの死

1

「更新出來ない」ので「責任を感じて」サイトを「閉鎖する」と云ふのは、本當に正しい事なのでせうか。「いつも樂しみに見に來て下さる常連さん」は、更新されてゐないサイトを見てがつかりなさるだらう、それは申し譯ない事だ──「だからサイトを閉鎖する」、この感覺が、私には理解出來ません。

だつて、サイトに置かれた文章を氣に入つて、常連さんは見に來るのです。それが、或日見に來たら、全く讀めなくなつてゐる。サイトの管理者が「責任を取つてサイトを閉鎖する」と、閲覧者はお氣に入りの文書を讀めなくなる──これは閲覧者に對する最大の冒涜です。或は、自分の文章を氣に入つて呉れた讀者に對する最大の裏切行爲です。

私など、氣に入つたサイトは、更新が停止しても、何度でも同じ文章を繰返し讀みます。それが或サイト(作者)を贔屓すると云ふ事ではないですか。裏切られた擧句「責任をとりました」と開き直られては、却つて堪りません。

2

管理者自らが「閉鎖します」と言つて閉鎖したサイトは、多くの場合、閉鎖される必然性が全く無いものである。

「更新出來なくなつた」「精神的ショックを受けた」「方向性のあるサイトを作らねばならないと常々主張してゐる割に自分のサイトには方向性が無い」「既に役目を終へた」、「だから」閉鎖します──何が「だから」なのだらう。安易に「だから」で自分を納得させないでほしい。

フリーのウェブサーヴァを利用してゐるならば、更新出來なくなつたからいづれ削除される、と云ふ事はあり得る。しかし、更新を停止したサイトが何年もフリーのサーヴァで生延びてゐる、と云ふ事はざらにある。サーヴァ側は意外とコンテンツを消したがらない。

また、サイト管理者個人からサイトの文書は本質的に獨立して存在してゐる。管理者の精神状態の爲にサイトの文書を犠牲にするのは、文書が可哀想だ。

「方向性のあるサイトが出來ない」と嘆く管理者には、そもそも閲覽者から自分がどのやうに見られてゐるのかを良く考へてほしい。意外な事に、「無軌道なサイト」は無軌道さゆゑに愛されてゐる場合も少くない。「自分のサイトには方向性が無い」と云ふのは、思ひ込みに過ぎず、客觀的に見ると實はしつかり方向性が出來上がつてゐる、と云ふ事があるのだ。

反省は結構だが、反省せずに思ひきり突つ走る事も時には重要ではないか。或は、自分のやりたいと思つてゐた方向とは違つた方向に、サイトが勝手に動き出してゐる事がある。サイトの運營者は、その邊の見極めをしつかりすべきである。思つてもみなかつた方向にサイトは勝手に成長する。サイトは生きてゐるものである。

さう考へると、「サイトの役目」なんて管理者が勝手に決めつける事は出來ないのではないか。