「正しい」つて何ですか、「正しい」事の何が良いのですか――良く聞かれる質問です。
「世間の人が信ずる事」、それが「正しい」事だ、そんな風に批判される事があります。「だから『絶対に正しい』なんて事は存在しない」。
もっともな話です。この世に「絶対」はありません。けれども「正しい」事は相対的で問題ないのです。
或大前提があって、或小前提があった時、或結論が必ず出る、といった事があります。これを「三段論法」と呼びますが、この時、「正しい結論」と「間違った結論」とは、完全に区別されます。「人間は死ぬものである。ソクラテスは人間である」、この時、「ソクラテスは死ぬ」は「正しい結論」です。ここで「ソクラテスは絶対に死なない」と言ったら、それは「間違った結論」です。
普遍的な「正しい」は、ありません。けれども、前提条件がある時には、その条件下で「正しい結論」を引出す事ができます。
「普遍的な真理」として「正しいHTML」が「ある」か――そう質問されれば、「そんなものはありません」と回答するしかありません。慥かにその通り。そして、此の種の「正しい」を、要求する人が結構沢山存在するみたいです。けれども、この「PC Tips」では、或は、多くの「正しいHTML」を唱道する人々も、そんな「真理としてのHTML」なんてものを主張しはしません。
インターネット・ウェブ・WWW――HTML文書が公開される場です。それらが「HTML文書」の「あるべき姿」を考察する際に、最初に考慮しておくべき「前提」となります。
HTML文書は「不特定多数の人に向けて公開される」、この定義は最早、誰にも否定できない「正しい結論」です。けれども、これは事実の話に過ぎません。
HTML文書は「不特定多数の人に向けて公開される」訣ですが、これは事実を述べた事です。この結論を引出すのに、今、手続きとして推論を行なってみました。この推論においては「正しい」なる概念が存在します。
一方、これは事実を述べたものに過ぎません。事実に対して「価値判断を下す」といった事があり得ます。事実を述べるのが「〜である」の話であるのですが、価値判断を下すのは「〜であるべきである」の話になります。
この「べき」の話、これがまた「正しい」の話である訣です。事実に関する「正しい」と、価値判断に関する「正しい」、この二つの「正しい」が「ある」。
「HTML文書は不特定多数の人に向けて公開される」――この事実に対して、「不特定多数の人が見るのならば、不特定多数の人が問題なく見られるべきである」と主張するのは、既に事実の域を超えて、価値判断の域に入ります。
「〜である」論と「〜であるべきである」論との間には、飛躍があります。この事は認めておかねばなりません。事実の認識は(人間の感覚が関係するので、単純に言ってしまって良いものでもないのですが)大体、客観的に決める事ができます。しかし、価値判断は、人間の感覚が支配的であり、思想的・主観的に決められるものです。価値判断は、人間の意思に基くものです。
人によって価値判断が異る事はあり得ます。「意見が異る」事は大いにある訣です。「価値判断の相違」「価値観の相違」或は「意見の相違」が「ある」――この事は「価値判断」の領域での話で単純に「正しい」を決定できない重大な理由です。「価値判断の相違」がしばしば「ある」ために、価値判断の領域における或「正しい」事は、常に同意が得られる訣ではありません。「正しい」は「絶対的ではない」「相対的である」とされる所以です。
事実と価値判断とは、異ります。この区別は重要です。
事実の話と、価値判断の話が混在した時、推論も混乱しがちです。「正しい」と言っても、事実として「正しい」のか、価値判断として「正しい」のか、しょっちゅうごちゃごちゃになります。
今は深くつっこんで話をする余裕がありません。ここでは非常に簡単に述べておくに留めます。事実の話だけなら単純に結論も事実と認められます。けれども、ひとつでも、価値判断の話が入り込んだら、結論は価値判断になります。
この事を念頭に置いておけば、混乱は割と容易に避けられます。そして、推論を行なって結論を出す作業も、適切に進める事ができます。
事実に関しては、多数の人の支持を得る事ができます。ところが、価値判断については、どんな場合にも、異論があり得ます。大前提が価値判断である場合、結論も価値判断になりますが、当然、異論があり得ます。
「正しいHTML」の話でも、価値判断が這入り込みます。異論は排除し切れません。「正しいHTML」の主張が単純な「事実の敍述」でない事=価値判断としての主張である事は、御承知おき下さい。しかし、この場合においても、「正しい」なる概念はあり得ます。
と言ふより、重要な事ですが、「正しい」の概念、これは推論において、「結論」について言ふのではありません。上の例における「ソクラテスは死ぬ」も、「正しい結論」ではありません。この場合、推論として正しいのであり、結論は正しい推論によって導き出された結論であるに過ぎません。
事実についての推論のみならず、価値判断についての推論においても、「正しい推論」か「間違った推論」があるだけです。そして、正しい推論に導き出されたものが結論です。
前提が事実に反したものであっても、正しい推論は可能です。その場合、結論が出ますが、それは「前提を認める限りで必然的に導き出される結論」になります。
これも「正しい推論」です。ただ、「人間は絶対に死なないものである。」なる大前提が「人間は死ぬ」事実に反するだけです。この時、大前提が事実に反する事を指摘して、結論が事実に反する事を指摘する事が可能であるだけです。
「正しくない前提」「事実に反した前提」――そんなものに意味があるのか。もちろん、事実の認識の話をするのに役に立たない事は多いのですが、一方で、知的遊戯としては割と一般的です。SFは全て仮説に基いた「正しい推論」を文学的に行なったものです。結論として示される小説は、嘘っぱちですが、SFの評価として「嘘っぱち」なるものはあり得ません。推論における誤・穴に対する突っ込みがあり得るのみです。
SFはともかく、ほぼ全ての学問が「仮説に基いた推論の体系である」のは、既に多くの人によって指摘された事です。数学の学問としての体系は、緻密に構築された物ですが、その基礎に仮説が存在します。しかし、数学は「正しい」。
数学――論理学――哲学は、「正しい推論によって構築された思考の体系としての学問」の典型です。一方、歴史学や文学、或は芸術と呼ばれるものは、より複雑で混乱したものに見えるかも知れませんが、数学等よりもより露骨に「作業仮説の設定と推論」によって研究を進めるスタイルを採用します。
唯物史観の歴史学も、推論としては割と正しいものが多いのであり、ただ前提条件としてのマルクス主義が崩潰して駄目になったに過ぎません。
今、「正しいHTML」と言って考察を始める訣ですが、これも過程としての推論における正しさを基礎に「正しい」と称する訣です。現時点で勧告として存在する幾つかのHTMLの規格、それらは全て、検討・討議の結果、提案されたものです。
結果として存在する「HTMLの規格」は、或種の前提に基き、推論がなされた結果、導き出された「結論」です。それ自体を「正しい結論」と呼ぶ事は不可能ですし、可能であっても「相対的な正しい」の域に留まるものです。けれども、規格を「結論」として導き出すのに、相当の手間がかけられ、推論が繰返された事は、認めざるを得ません。
この手続きの存在を認めて、「正しいHTMLの追求」は「あり得る」と、我々は主張する訣です。
「PC Tips」のHTMLに関する記事は、その種の「手続きとしての推論」を、整理された形で再現し、追体験しつゝ、理解する事を意図して書かれました。その種の理解を通じて、我々はインターネットのより良い利用法を知る事ができますし――少くとも、仕組をわかってHTML文書を書くのは面白い事です。