制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2002-03-01
改訂
2006-07-10
状態
メモ

HTMLの互換性について

思考プロセスと文章

HTML文書を作るために、一番大事なものは何? ――そんな質問をされたとしたら……。あなたはどんな答を脳裡に浮かべますか。

どんな人も、手段を使つて目的を実現しようとします――この過程が、今の話、HTML文書を作る話では、重要になつてきます。目的である「何」だけ、手段である「どうする」だけではなく、目的と手段を結び附ける過程――「何をどうするか」の思考過程が、HTML文書では大事な要素です。

時間的な制約と、人間の認識能力にもとづく限界があつて、多くの人の思考は線的(リニア)なものにならざるを得ません。思考の流れを記録した文章も、必然的にリニアなものになります。

多くの人が、リニアな文章で、思考します。思考の流れが腦の中で枝分かれする人、複数の論理の筋道を思考の中で同時に存在させ、追跡できる人は、あまり存在しません。

文章の構造は、人間の思考のスタイルを反映したものです。全ての文章の構造は、はじめから終りまで、一本の線状です。

しかし、文章は線的であるからといつて、完全に一本調子であるわけではありません。大概、一つ文章は、いくつかの部分に分断され得ます。思考は、いくつかの思考プロセスが集まつたものです。

人は、何かある事を思考すると、ある時点で区切りをつけて、次のことを思考しはじめるものです。一つのテーマを論ずる議論の場でも、人は次々に見方を変更していくものです。自然、文章には、複数のものの見方が次々と連続して出現する様になります。

思考を曖昧化する視覚表現

文章で、ものの見方を変化させた時、人は段落を改めたり、章建てを改めたりして、そのことを示します。現在、本や新聞などで見られる文章の表現形式は一般に、人間の思考形態に基いて、成立したものです。書籍や新聞・雑誌、ちらし、その他の印刷された版面は、それが読者に何かを伝達しようとするものであるならば全て、人間の思考をわかりやすく表現したものです。

コンピュータが実用化されて、ワープロやDTPが出現しました。そこでも人は、人間の思考の仕方に基いて、見た目を決定しました。

ここで注意しておきたいのですが、レイアウトで表現者の思考プロセスを表現するのは、あくまで印刷メディアに限定された話です。印刷物では一般に、視覚効果による表現の明確化がなされます。ぱつと見で、読者が表現者の意図を推測できる様に様式が発達しました。

それは、紙とインクで表現する際には、視覚的に理解できる以外の、余計な情報が載せられないからでしかありません。

コンピュータむけのデジタルデータでは、人間の目に映らない部分に、情報を盛込むことができます。ワープロやDTPは、印刷物を作るのが目的であり、結果としてできあがる印刷物だけが重視されてきました。データも表面的な視覚情報の形でしか、表現者の思考形態を保存しませんでした。

しかし、印刷物を出力するためのデータでは、表現者の思考形態は、直截的には保存されません。出力する特定のプログラムやハードウェアに、そのデータの存在意義は依存してゐます。はつきり言つて、その様なデータは、汎用性がありません。

ワープロ文書のコンバータが商品化された事があります。しかし、シンプルな構造の文書ならばともかく、ややこしい内容の文書は他のフォーマットの文書には容易に変換できません。印刷物における見ばえを重視したワープロ文書、視覚表現に依存したデータファイルは、とても汎用性が低いのです。でも、ちよつと考察しただけでも、その理由は明白です。

表現者の思考を視覚表現に置換したあとのデータは、表現者の思考を、一面では反映してゐますし、時にはニュアンスを附加する事すらもあります。その一方で、視覚表現に変換することで、表現者の思考を曖昧にする副作用も生じます。もちろん、その曖昧さは、人間にとつては「好ましい」ものとなることも、時にはあります。しかし、情報の欠落が起きる、と見れば、表現者の思考を曖昧に表現するのは好ましくない、とも言つて良いかも知れません。

互換目的のファイル形式としてのHTML文書

HTML文書の形式は元来、文書データのやりとり(文書交換)をするために開発された、互換性を追求した文書形式です。

ワープロ文書のコンバータが、しばしば有効に機能しないのは、ワープロの文書データが印刷後の視覚効果にのみ依存するからでした。文書交換において有効に機能すべきことを意図して開発されたHTMLは当然、思考を曖昧に記録し、情報の欠落を生ずることを避けねばなりません。

当然、表現者の思考を直截的に記録すれば、曖昧性は排除されます。そして、表現者の思考・文章の意図が明確に記載されたならば、具体的な表現に変換する方法を指定することで、その記録データから出力結果は一意に決定できます。

HTMLの本来の理念は、思考を直截的に記録した汎用性のある真のデジタルデータをウェブで交換できる様にするものだつた筈です。

しかし、Netscape Communications社やMicrosoft社は、ブラウザであるNetscape NavigatorやInternet Explorerなどを無料で配布し、インターネット市場を独占しようとしました。その過程で、あるHTML文書が自社の製品でのみ「美しく」整形されることを売り文句に、独自の仕様を市場に提供することで、他社の製品の排除をはかりました。

ウェブ制作者は、「美しい表示」に目が眩み、互換性を無視してメーカの戦略に進んで乗じようとしてきました。その結果、当然の話ですが、ウェブには互換性の低い、汎用性のない文書が溢れることになりました。

残念ながら、現在のウェブでは、特定の集団の間でしか通用しない文書が主流です。はつきり言つて「Internet Explorerに対応する事」が、サイト制作者の態度の主流となつてしまつたのです。もちろん、Windowsへのバンドルが、Internet Explorerの市場独占を実現した大きな要因です。しかし、マイクロソフトの市場独占を支持せざるを得ない様な状況に、現実のウェブが自ら陥つてしまつたのも事実です。

これが好ましいことであるかどうかは、断言を避けますが、少くとも特定のプラットフォーム(Internet Explorer)を利用しなければならない現実は、一部の人には受容れ難い事なのではないですか。

一方で、現状のままウェブが将来も推移していくとは限りません。現在のブラウザ等に依存するのは、たしかに現在は「良い」あるいは「仕方のない」こと、時には「好ましい」ことであるかもしれません。しかし、今の環境に依存すれば、将来必ず困る日が来ます。

「その時が来た」で、果してよいのか――それが私の心配する事です。

「その時」になつて苦労するよりは、今のうちから互換性を考慮して、HTML文書を作つておいた方が良いのではないですか。ウェブに限らず、現在は一般に、刹那的な風潮がありますが、良いものは長持ちします。長持ちするHTML文書を作るのは、決して悪い事ではありません。