制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成13年5月26日
公開
2001-05-26
改訂
2008-11-30

匿名批評の嚴しい戒律

匿名批評の理想主義

「匿名批評の嚴しい戒律」と題して、昭和50年11月25日に谷澤永一さんがかう云ふ文章を書いた。平凡社のPR雜誌に出た、語調は甚だ勇ましい匿名時評を批判したもの。

覆面して暗闇から人を撃つ場合には、文壇や學會の符牒を用ゐず、人事問題や、勢力關係を我が黨派に利せんとする世俗的效果を狙はず、係累なき健康な讀書人の視座で理解できる論法を驅使し、一篇の短文で問題にケリをつけるきめ手にしぼつた凝縮表現が肝要。堀米庸三が假に不勉強だとして、堀米が當該論文で述べようとした論旨そのものがそのためいかにヲカシクなつてゐるかを内面的に剔抉して見せぬ限り、匿名批評は讀書人の良識に相渉るをえぬ、學會ボスへの嫉視の發作にとどまるだらう。匿名氏は私心を捨てよ。

もちろん、雜誌の匿名批評と、ウェブの匿名掲示板とは、メディアが違ふ。が、いづれも覆面して暗闇から人を撃つものであるし、一篇の短文で問題にケリをつけようとするものである譯で、谷澤氏の言ふ「戒律」は同樣にあてはまるだらう。

暴言の言捨てや獨斷による決めつけではなく、單純明快な論理展開が、匿名批評には必要。惡口を言ふばかりが匿名の能ではあるまい。惡口を言ひたければ、反論を受ける用意もしておくべきだ。

匿名批評の暗い現實

なぜ匿名掲示板が「便所の落書き」状態と化してゐるかと言へば、ひとへに「書き手のレヴェルが低い」事がその理由である。物事の問題點とその原因・對策を、ずばり一言で表現出來ないやうな、文章力のない人間が寄集まつてゐるから、匿名掲示板の質は惡いのである。

文章を書くとはどう云ふ事か、について、自覺的でない人間に文章を書く媒體を與へるとどうなるか──その結果が「2ちゃんねる」なのだと思ふ。「聲無き聲」を、實際に集めてみると、「衆愚」にしかならない――「2ちゃんねる」のみならずウェブに於ける匿名の投稿が悉くろくでもないものである現状は、まさにその事實を示してゐるものと言へよう。


「匿名批評に要請される覺悟」なんてものを書いてみても無駄だとは判つてゐる。ただ惡口を言つてストレスを發散したいだけの人間に覺悟なんてものはないし、そんなものは「あつても邪魔なだけ」だからだ。

そして今のウェブは、「批評」と稱しつゝ實はただの惡口でしかない事を言ふのに便利な環境のみが整備されてゐる。ユーザにとつて匿名とは、「自分の身を守る」のみならず「攻撃する際の最強の楯」として非常に有效に使へる兵器であるに過ぎない。匿名サーヴィスはただユーザを甘やかすだけのものにしかなつてゐない。「匿名さへ使へば覺悟なんてものは必要ないのですよ」と匿名サーヴィスはユーザを勸誘し、それで儲けようとしてゐるし、ウェブサーヴィスでは儲ける事のみが至上の價値とされてゐるのだ。

だからウェブは最う駄目なのである。