制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年十一月十九日
公開
2009-12-05

公開の場でのやりとりと云ふ事

「誰か」に對して語るとは

私信はメールで伝え、共有したい情報はwebページに載せる - 雑記 - AZ store

例え特定の誰かに向けた表現があっても、共有した方がいいと思う情報はwebにアップする。特定の相手だけに伝えたい情報はメールを送る。

ウェブと云ふ公開の場に向けて書かれた文章と云ふものは――はつきり言ふと、掲示板におけるやりとり、或は、個人が運營してゐる「ブログ」のコメント欄への書込みであつても、「論爭相手」或は「ブロガー」だけに向けて書かれたものであるわけがないのであり、「不特定多数の人が讀む」爲に書かれてゐる。坂取さんはその邊の事が完全に解つてゐるから、讀者は信用して、その文章を讀んで良い。

意外と「ウェブで物を書く」事の意味を解つてゐない人が多い。「ブログのコメント欄」や「掲示板」と云ふ「場」なるものを、殊さら意識して、そこでのやりとりを「特定個人と特定個人の一對一の對話」のやうに勘違ひしてゐる人もゐるくらゐだ。が、誰でも見る事が出來るのだから、一見極端なやうにも思はれるだらうけれども、ウェブでは「何處で書いても同じ」である。公開の場であるウェブで書かれた文章は、「批判された人が見る可能性」は、何處であつてもゼロではない。

逆に言へば、惡罵嘲笑を「ブログ」の記事に書連ねてトラックバックを送りつけたり、相手の「ブログ」のコメント欄で中傷したりするのも、餘所に「ブログ」を立上げたり、掲示板を使つたりして、粘着するのも、やつてゐる事は本質的に全く同じ。「面罵する」のも「蔭でこそこそ惡口を言ふ」のも、インターネットのウェブのやうな公開の場で行はれてゐるのであるならば、區別は出來ない。

やつてよい批判・やつてはならない誹謗

結局のところ、批判として妥當な方法を用ゐる事がウェブでは許されるだけであり、批判として不當な方法はウェブに於ては如何なる理由を言ひ訣にしても許されない。ウェブは公開の場・公共の場であるのであつて、そこでは議論しか存在し得ないのだから、議論として正しい方法をとる事だけが要請される。

もつとも、日本人は批判と云ふ事が全く解つてをらず、中傷や人身攻撃、罵倒のやうな非難を批判と取違へてゐる事が極めて多いわけで、プロのライターでもその邊がまるで解つてゐない人が幅を利かせてゐるくらゐだから――と言ふより、殆どの人がさうなのでないか――ウェブの素人ライターもさう云ふ駄目なプロライターを眞似して、人格攻撃ばかりやつてゐる人間が平氣で存在してゐたりする。しかも、さう云ふ人に限つて、理詰めで人の發言を批判するのを「惡質な嫌がらせ」のやうに言つたりするから、をかしな話がますますをかしくなるのだが、誰が何う考へても人格攻撃が正しいわけがない。そして、理詰めの説得が人身攻撃であるわけがないのも自明で――ところが、理詰めである事を「惡」だと「感じる」日本人は異常なまでに多い。私にはそれが全く理解出來ないのだが、ポパーに據れば外人にもさう云ふ感覺の人が結構ゐるらしい。

しかし、具體的な事實と、主觀を持つ人間と、客觀的な理念とが、それぞれ存在する事は、ポパーが指摘する通りで、理念が、主觀でしか認識出來ないにしても、客觀的に存在する事は、信じなければならないし、信じざるを得ない。さう云ふ理念・觀念を論ずる事は、議論に於て唯一の目的だが、その目的が多くの人には理解出來ないと言ふ――正かな派の人にすらも、わからない人がゐるのである。

だが、客觀的な理念=個人から獨立(超越)した觀念が議論の對象であるのだから、議論する個人の人格だの何だのを論ずる事は何の意味も持たない――この事は火を見るよりも明かだ。それが解らないのは、他人を攻撃して愉しんでゐる、それこそ人格的に・人間として缺陷を持つた人だからだ。まともな人間なら、他人の發言の内容が理念・觀念に關するものならば、一往その人個人から切離して、判斷し、評價するものだ。その結果としてその他人の人間的な評價をするのならばあり得る話だが、先に人間を評價してから、その人の發言の内容をその人物評を基に極附けて判斷するなんて――正直言つて、私には、何をやらうとしてゐるのか、理解する事すらできない。

論者の人格を云々する不毛

そもそも、「理念より人」なんて事は不可能なのだ――人の人間性を評價する爲には、その人の考へ方を先に知らなければならない。ところが、「考へ方なんて知らないでも、その人を評價できる」と、平氣で言ふ人がゐるのだ。わけがわからない……と言ふより、その人は、もつともらしい嘘を吐いてゐるのだ。

その人の言動を見て、考へ方を知り、判斷する――「人を判斷してゐる」――にもかかはらず、人を人として判斷出來るかのやうな事を言ふ。

相手の人間性を、口先では、客觀的に捉へてゐるやうに言ふのだけれど、實際は、相手の考へ方が自分にとつて都合が良いか何うかを考へてゐるのだ。そして、相手が自分の「敵だ」と判斷したら、最うその相手は「惡人」なのであり――「惡人」の言ふ事は全部「惡」だと極附けて、偏つた見方に何時までも固執して、何時までも非難を續ける。

「人」を基準にしたら、人は他人に對して、人身攻撃・人格攻撃・主觀的な非難の類しか、出來なくなる。そんな事が一般に許されるわけがない。だが、なぜか自分にだけは「許される」と、自分にだけは特權があるかのやうに振舞ふ、「ネガティヴエリート」の人が、ウェブには存在する。と言ふより、斯う云ふ「自分の事は棚に上げ」の人が極めて多い事は、ポパーが指摘した通りだ。

さう云ふ人は本當に困り者なのだが、一般の人はさう云ふ人が粘着行爲をやつてゐても「粘着されるのはされるだけの理由があるのだ」――と言ふより、粘着と粘着の被害者の間にだけトラブルが收まつてゐるのだから自分には關係ないよと思つて、「また馬鹿が喧嘩してゐる」と、他人事として、輕く考へてしまふ。

惡を見過ごす鈍感さ

實際には、さう云ふ粘着行爲を見過ごすのは、粘着行爲を容認してゐるのと同じなのであるが、他人事のやうな顔をすれば自分はその問題と全く關はりがないのだと思ひ込めてしまふから仕方がない。しかし、「惡事を見て見ぬ振りをしてゐる」と云ふのは、それ自體、態度として自分の判斷を表明してゐるのであり、一種の問題との關はつてゐると言つて良い。

少くとも、問題が公共の場で生じてゐるならば、「知るチャンス」はあるのであり、知つてゐるならば「見て見ぬ振りしてゐる」態度をとつてゐると、第三者に判斷される事はあり得る。即ちその人がその問題に對して或種の價値判斷をしてゐる事が客觀的に判るのである。その邊の事まで考へないで、ただ「關り合ひになりたくない」と言つてゐるのが、ウェブの多くの人の實状である。

實際には「關り合ひになりたくない」と言つて、問題に「關はつてゐる」のだし、その「關はり」の中で惡人の行爲を見過ごしてゐるのだが、それは惡人の行爲を容認してゐるのであり、即ち「自分は惡事を容認する人間である」と(消極的な形ではあれ)公然と宣言してゐる事になる。その邊まで考へて、ウェブで物を言ふ人は言ふやうにしていただきたい。


繰返すが、AZ storeの坂取さんは、その邊の事はちやんと解つてゐる。ただ、世間には「解つてゐない人」が多いので、私なんかは非常に困らせられてゐるのである。