制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2008-11-30

人格攻撃の空しさ

言爭ひの場で相手をやり込める事だけを目的にするな

論爭それ自體は、「何が正しいのか」を探究する目的でなされるべきだ。そこで飛び交ふ罵聲や皮肉は、附屬物でしかない――と言ふより、さう云ふ意識を持つて、相手の惡口を言ふなら言ふべきだ。

屡々勘違ひしてゐる人がゐるのだが――派手に惡口を言つて相手を凹ませ、相手が默り込んだり、泣き出したりする事を目的としてゐる、意地の惡いだけの惡質な論者が、ウェブには跳梁してゐる。彼らは「與し易し」と見た人間に襲ひかかり、侮辱と嘲笑を浴びせ、相手が潰れるまで攻撃を繰返す。相手が黙らなければ「監視サイト」を作り、粘着行爲・ストーカー行爲を續ける。

――そんな事に何の意味があるのだらう。「有害な人間をウェブから追出す事は崇高な自分の使命である」と、さう云ふ惡質な論者は常に主張するのだが、ストーカー行爲以外の何物でもない。ただの人格攻撃をして快を貪つてゐるだけなのに。彼らは言葉を飾つて自分で自分を美化してゐるだけである。自己の内部の醜さを見よと言ひたいが、彼らは他人の「惡」だけを見ようとして、自分自身を省みる事がない。

ただ「人を攻撃する」だけの論戰は無意味であり、してはならない。その程度の事は當り前の常識にならねばならないが、今のウェブのユーザには、と言ふより、今の日本人には、到底理解されない事かも知れない。日本人には、何が正しいか、と云ふ事には全く興味が無く、その人がどう云ふ人間であるか、にのみ興味を抱く、と云ふ人が極めて多いからだ。

ネットストーカーのやつてゐる人格攻撃も、意外と多くの人に「人物批評」だと呑氣に受取られてゐるらしい。明白なストーカーはそんなにゐなくとも、潛在的にストーカー的な心情を持つてゐる人間は極めて多い。だからこそ意識して自分の内部の異常性は制御しなければならないのだが、今のウェブではその邊の自制心を解放する事こそが「ウェブの醍醐味だ」といつた勘違ひを推奬するやうな「言説」が流布してゐる。

他人を評價するその人もまた、評價される對象である

大體、人の人格を云々しても仕方がない。特に、現に生きてゐる人間の評價をしても始まらない。人の評價は死んでから定まる筈のものだからだ。

そもそも、他人の人格を云々するなんて事を面白がつてやつてゐても意味は無い。それで「わかる事」はただ一つだからだ――その「面白がつてやつてゐる人」の事が「解る」。

何うせ人間は他人を自分の解りたいやうにしか解らない。ストーカーは攻撃對象の人間を、自分の望むやうな「嫌な人間」としてしか「解りたがらない」。粘着が言ふ「こんなに惡い人間なのだ」と云ふ主張も、土臺その粘着が氣に入らない人間を、自分の望む「惡い人間」に仕立て上げてゐるに過ぎない。

人間が見た人間の像等と言ふものは所詮全て虚像であり、實際の人間そのものではない。惡意を通せば相手は「惡意の塊」になるだけだ。結局自分自身を相手に投影してゐるに過ぎない。それが解らないで執拗に他人に粘着し、嫌がらせを仕掛けて、まるで自分はいい事をしてゐるかのやうに誇つてゐる論者が、最近のウェブでは目立つてゐる。いい氣なものだと思ふ。