制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2008-05-11
改訂
2008-05-15

「正義」を振りかざす人々

匿名と實名の問題は、ネットワークが誕生して以來――と言ふより、メディアが誕生して以來、常に存在して來た問題だ。が、システム的な議論をしてゐてもしやうがない事態が「人間關係」のトラブルでは生ずる。

「抑止力」としての「實名主義」

荒し行爲を防止する爲、「名前を出して貰ふ」事が屡々主張される。「名前が出るならば、惡い事はできない筈」と云ふ發想に基いて。

IPをさらすとか、何處の誰であるかを明かにするとか、相当に惡質な荒し行爲の實踐者に對しては、「制裁」が行はれて來た。ネットワーク各地の掲示板・ブログのコメント欄を荒らし、廣範圍に迷惑をかけるやうな荒しには、「アク禁」が無意味な事もある。「場」を守る爲には、斯うした「對處」の仕方しかあり得ない事も多い。「社會的な抹殺」は、彼ら「惡人」に對しては、それなりの效果を發揮するものと期待される。

しかし、現實には、さう云ふ荒し行爲者には、制裁それ自體がナンセンスに見える。寧ろ、彼等にとつて、その種の制裁は、自分の活動を「妨碍」するものである。彼らは、當然受けるべき制裁であつても、自分に對する「惡意に基いた加害行爲」だと看做す事が多い。さうなると、「場を守る爲の制裁」は、「荒しに對する抑止力」として機能しない。

彼らは屡々、單なる荒しから、制裁を課した人間に對するアンチに轉ずる。


もちろん、アンチの出現には樣々な理由がある。が、全てのアンチ行動の原因は逆恨みであり、アンチの自己中心的な理由に據るものである。

抑止できないもの――正義

「信者の横暴を許すな!」――「アンチ」「粘着」と呼ばれる人が常に叫ぶ事である。

特定個人・集團に對して敵意を剥き出しにし、ひたすら嫌がらせを續ける存在、それがアンチである。長期に亙つて斷續的な攻撃を仕掛けてゐれば粘着してゐると言はれる。何れにせよ、彼らは惡質な存在である。

「荒し」の類と十把ひとからげに論じられがちだが、「アンチ」「粘着」の類の人には「荒し」と決定的に異る意識を持つ。彼らは「自らに正義がある」との極めて強固な信念を持つ。

「信者」を見下して見せ、或は、侮辱するやうな態度をとるだけの「アンチ」「粘着」――そんな存在であつても、自らの行爲が正當なものであり、「さうしてやるのが當然だからさうしてゐる」と本氣で信じてゐるものである。彼等には、自分が惡い事をしてゐる、と云ふ自覺が全くない。假に自分の行爲が迷惑行爲であると認識してゐても、それは正義を實現する過程での仕方のない事である、との思想が彼らにはある。

――と言ふより、「アンチ」「粘着」の人は、自分が迷惑をかけるのは「信者」が存在し、「信者」が活動してゐるからだ、即ち、「自分のしてゐる惡い行爲の責任は全て信者が取るべきである」「自分に惡い事をさせたくなければ、信者は默るべきだ」と云ふ意識がある。歴然たる責任轉嫁であるが、そのやうに責任を「信者」に押附ける事で、彼らは良心の呵責を感じないでゐられる。

「信者」に對して「アンチ」は「抗議行動」をとつてゐる積りである。デモと同じ積りなのだ。迷惑をかければかけるほど、それは「信者」の言動を抑制するのに有效である――「信者」の行動を抑制するのは「善い事」だと彼らアンチは信じてゐるから、彼らは嫌がらせをするのに何の罪惡感も覺えない。

暴力行爲としての粘着・アンチの活動

彼ら「アンチ」「粘着」の行動は、飽くまで感情的に氣に入らない人間を問答無用で默らせる事が目的である。その言動は、一面、批判的な内容を含む事もあるが、根本的には惡意に基いた感情的なものである。

殊にインターネットは、言論の世界であるから、如何なる言葉の暴力も、言論の名の下に、「批判」の中に取り込まれる事になる。「アンチ」は、自身の行爲を單なる暴力と看做さず、妥當な言論活動であると看做してゐる。それは危險な勘違ひであるのだが、彼等にはそれが解らない。或は、解つてゐて、だからこそ、「信者」の發言を、根據を擧げて批判する事もある。だが、結論は最初に感情に基いて決定してゐるのであり、「信者を潰す」と云ふ目的の爲に彼らは證據なり何なりを擧げるに過ぎない。

「アンチ」「粘着」は、常に「信者を潰す」目的の爲に行動してゐる。それは彼等の中では「正義の行動」である。彼らは目的を遂げる爲、手段を擇ばない。彼等は自己中心的であり、自らの行動が明かな迷惑行爲であつても、責任を他者(「信者」)に押附ける事によつて、自らは免罪されると心から信じてゐる。

斯うしたネットワークにおける異常行動は、異常心理に基くと屡々評されるが、オフラインの、所謂「現實社會」においても、この種の惡意を剥き出しにした評論家の類が存在し、一定の支持を受けてゐる。さうした評論家諸氏にも、異常であると批判されるべき人がゐる訣だが、その執筆活動が「商賣になつてゐる」事から「正當である」と看做される事がある。

實際、ネットワークでの「アンチ」「粘着」の類にも、さうした現實に存在する惡意のライターの存在を、相當強く意識してゐる氣配がある。と言ふより、寧ろ、さうしたライターの活動を模倣して、同じやうにネットワークでも惡意の嫌がらせ行爲を行なつてゐると言つて良い。

アンチ・粘着を容認するネットワーク社會

加害者が少數であつても、ネットワークでは大變大きな效果を擧げる傾向がある。自らの正義を主張する惡意の異常行動は、既に多數の被害を齎してゐる。何らかの對策が必要であるが、「アンチを生まないやうに自重する」と云ふのがそれでは、ネットワークにおける(それに限らないが)各種の活動が萎縮するだけの結果にしかならない事が考へられる。

イラストやコミックを發表するクリエイターに屡々粘着が附く。また批評をもつぱら行なつてゐる人にもアンチが附く。アンチ・粘着に言はせれば「目立つてゐるのが惡い」と云ふ事なのだが、目立つ事の何が惡いのか。アンチ・粘着が常にハンドルを名乘り、自己をアピールする事を見れば判る事だし、一般にも言はれてゐるが、アンチや粘着は、自分こそ目立ちたいのであり、ところが自分は目立てない、そこで目立つてゐる人間を逆恨みして、足を引張り、自らを慰めつゝ、粘着されてゐる人間の人氣を利用して、自分が目立たうとするのである。アンチの發言では、クリエイターの意圖、批評をしてゐる人の意圖を完全に無視した、自分勝手な解釋に基いた、惡意の非難が常に見られる。創作に對しては「下手」等の罵倒を浴びせ、批評には「喧嘩を賣つて嫌がられてゐる」等の極附けを行ふ。然るに、さうした自分の惡意に基いた發言を、アンチは常に「正當な批判である」と主張する。

「言論の自由」を惡意が利用する典型例が「アンチ」「粘着」である。これらの存在を許してゐるネットワークの一つの傾向が「スルー」である事は指摘しておきたい。「被害に卷込まれたくない」と云ふ「當然の發想」から、惡意の粘着・惡意のアンチの行動がスルーされ、結果として容認されてゐるケースが少くない。

現在のウェブは、價値判斷の原則が確立されてゐない。サーチエンジンのプログラムは、ある文献が、用語の點等から如何なる内容を含むかを判定し、多くの人が參照してゐるかゐないかと云ふ事も利用しつゝ、「有用」か何うかを評價するが、それが眞實か何うか、有益か何うかは決して判斷出來ない。多くの人の意見が判定の參考にされる以上、已むを得ないが、惡い行爲に對しては、多くの人が「惡い」と言はないと、ウェブでは文献の價値が「わからない」。

勿論、それはオフラインの、現實の世界でもさうなのだが、言論の世界は既にオフラインとオンラインの境界を突崩しつゝあり、ウェブでの極めて速い判斷が大きな影響力を持ちつゝある。ウェブでは「默り込む」傾向があり、さうした中で「アンチ」「粘着」の「果敢」な行動が目立つ結果となつてゐる。アンチの存在がウェブでの言論を萎縮させつゝある現實があり、結果としてウェブそれ自體における個人の價値の縮小が出來してゐる。それは果して良い事なのか。

現在のウェブでは、「惡い事を糺彈する」と云ふ名目の下での個人攻撃が餘りにも多くなつてゐる。ウェブがアングラ化する傾向は以前から強かつたが、さうした場に隱れてゐるべき存在が今は露骨に表に出て來てしまつてゐる。それが「正義」の假面を被つてゐる事は、大變危險な徴候である。