制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年十月八日
公開
2009-12-05

「自分の名前を名告る事」の解釋

平成二十一年十月八日
実名・匿名論争が論じるべきテーマはたった一つ: 304 Not Modified

過去なんどか実名・匿名論について書いてきた。そのときは、実名派は肩書き主義の人で「誰が言ったのか」を大事にする人で、匿名派は「何を言ったのか」を大事にする人と分けていた。

えー????????
匿名派の人逹こそ、肩書き主義で、「誰が言つたのか」を大事にする人で、實名派こそが「何を言つたのか」を重視する人だ。
喜六郎や「義」ら「匿名派」の人は、「誰が言つたか」「その人物の人格は良いか何うか」「實績はあるのか」「現實社會で就職してゐるのか」と執拗に問ひかけ、相手を潰さうとする。一方、私は、「實名派」だけれども――と言ふより、「實名派」だからこそ、「何を言つてゐるのか」を問題にすべきだ、と言つてゐるのだし、肩書きや實績は問題にすべきでない、と何年も主張してゐるのだ。
平成二十一年十月八日
本當に、多くの人と、私とは、物の見方が正反對だなと思ふのが、名乘る名前に對する認識に關して。世間の人は、實名だと「自己顯示欲が強い」と思ふらしいのだが、私にしてみれば、ハンドルを名乘つてゐる方がよつぽど自己顯示欲が強いと思つてゐる。
だつてさうだらう、自分以外の人間が附けた名前である實名なんだから、それを名乘つたつて當り前――氣に入つてゐようがゐまいが、「お前の名前なんだ」と外部の存在に決められてゐるんだから仕方がない。そんなものを名乘つたつて自分と云ふものをアピールする事になんてなりつこない。ところが、ハンドルなんて、自分の名前が嫌だ! と云ふ意識の下、自分で自分に氣に入つた名前を附けて、名乘つてゐるんだ――それこそ「自分、自分、自分」と言つてゐるやうなものではないか。
多くの人が單純に「自分の名前」として「實名」を、「他人の名前」として「ハンドル」を考へてゐるけれども、よくよく考へてみれば、「實名」は「他人が附けた名前」で、「ハンドル」は「自分で自分につけた名前」だ。自分で自分の事を定義したがつて、實踐してゐるんだから、ハンドルの方が自己顕示欲まみれと言つて良いだらう。「これが本當の私なんです」と云ふ奴だ。喜六郎なんて、「俺うまいハンドル附けた! 面白いだろ!」と言つてゐるやうなもので、ハンドルを名乘つて好い氣になつてゐる典型的な例だ。
自分を自分で受容れられる形で表現したい!――自己顯示欲以外の何物でもない。名前なんて記號――「實名」だつて所詮記號なんだから、別にさう決つてゐるなら他に考へる意味なんてありはしない。ところが世間の人は、さうは考へないらしい。と言ふより、そもそもそんな事を考へないらしい。「實名を名乘るのは實名を賣込む事だ」「匿名は自分を匿してゐるから謙虚な事だ」――何とも單純な割切り方で、實に尤もらしいし、「説得力」は拔群だ。だが、さうやつて安心して實名を罵つてゐる匿名の人々が、實に澤山存在するのだ。ならば、この「論理」は「あやしい」と疑つた方が良い。心理は大抵、表面的な意味とは正反對の事が眞實であるものだ。