制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年十一月二十五日
公開
2009-12-05

議論を否定する人々

自分が何をしてゐるのか解らない人

「機械が苦手」な人と「議論が苦手」な人とは、似て非なるものだが、共通する部分があるやうな氣がする。

「議論は苦手なので」と言ひながら平氣で話を續ける人がゐる。私には理解出來ない。議論をしながら「私は議論が苦手なので、やりません」と平然と言へる――これは一體何なのだらう、と私は思ふ。自分がしてゐる事が議論だと云ふ事すらも分らないらしいのだが、意見を表明してゐる時點で議論をしてゐる事は明かなのだ。意地になつて議論を拒絶するのでなく、自分が議論をしてゐる事實を認めたら何うか。

日本人は屡々、議論でない御喋りが「ある」と思ひ込む。けれども、御喋りが議論である事も屡々ある。特にウェブではさうだ。ところが、意地でも議論と呼ばれるのだけは避けようとする人がウェブには數限りなくゐる。「私がしてゐるのは只の御喋りです。議論ではありません」――ところが、さう云ふ意見を表明してゐる時點で、その人は既に一種の議論に關與してゐるのである。

何一つ意見を主張せず、御天氣の話しかしないと言ふのであれば、それはなるほど、他愛のない御喋りではあらう。しかし、一つでも意見を述べ、反論を呼び得る状況を作り出してゐるのならば、それは既に議論を始めてゐるのだ。そこで「議論はしません」と宣言するのは、遁辭を言つて卑怯にも反論を封じ込めようとしてゐるだけでしかない。

議論を始めながら、議論を囘避して、ただ自分の意見だけを通し、他人に無條件で押附けようとするとするのは、卑劣な事であり、惡質な事である。それが全く無邪氣に行はれるとしたら、それは益々苛立たしい事だ。

結論を押附けたい人

私(筆者・野嵜)が「議論を押附けてゐる」と非難する人がゐる。しかし、その人は、議論をしない事によつて、私(野嵜)に結論を押附けてゐる。

私にしてみれば、結論の押附けこそ、許し難い事である。

議論に反對する人は、自分の意見を力づくで他人に押附けるのに都合が惡いから、議論を囘避する戰術を取つてゐる。或は、「自分は偉いから、目下の人間(野嵜)に批判されるのが、我慢ならない」と言ふのだ。差別主義者・民主主義アンチの人だからこそ、議論を囘避し、議論を否定する。それは惡い事だ。

暇潰しをしたいだけの人

批判を否定し、議論を成立たせまいとする人々の態度は大體二つに分けられる。

一つ。眞理探究それ自體を否定する價値觀を表明する。價値相對主義は勿論の事、「面白主義」もその種の價値觀である。

二つ。論者の「議論する資格」を問題にする。人格攻撃を仕掛けるのは判り易い戰術だが、批判者を「的外れ」「誤讀」のやうな言ひ方でいなすのも似たやうなものだ。

しかし、何れも根本は同じだ。即ち、何れの立場の人も、探究するに價する眞理等存在しない、と考へてゐるのだし、眞理を探究する事が許されるのは一部の特權的なエリートである、と考へてゐるのだ。