制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-07-28
改訂
2000-09-13

文字コードの不毛な議論

譯の解らない議論

文字コードの議論は譯が解らない。なぜわからないかと云ふと、その理由は簡單──文字コードの作り方に原則がないからである。

最初にきちんとした方針があつて文字コードが作られたのならば、文字コードは單純かつ明快なものが出來た筈。しかし、現實のハードウェアや國語政策、そして研究の不備が、一貫した文字コードの策定の障礙となつた。

いまや、かつてのやうなハードウェア上の制約はなくなつた。しかし、「データ資産の繼承」「互換性」の爲に、不備があつても、一度作られた文字コードは破棄出來ない──とされてゐる。

日本語文字コードの問題點

日本語文字コードには日本特有の問題がある。國語國字改革による漢字制限と云ふ策定當時の事情から、日本の文字コードには漢字が足りない。さらに、漢字制限論者は現在も日本に一億人程ゐて、文字を増やすのに(消極的・積極的を問はず)反對してゐる。それゆゑ、漢字を増やさうと云ふ試み自體が一般に理解されない。そもそも國語國字改革自體が撤囘され得ない。

漢字を増やすにしても、「第一水準」「第二水準」の漢字の他に追加する、と云ふ手段しか取れない──「互換性」のがある爲である。

JIS文字コードでは、「第一水準」では音訓順、「第二水準」では部首・劃數順の排列となつてをり、システムとして一貫性がない。現在の文字コード論議では、いかなる論者もさう云ふ出たら目な「文字コード」自體の見直しはする氣がない。ただ、繼接ぎによつて漢字の收録數を取敢へず増やさうと言ふのみである。システムとしての一貫性(質)の議論は避けられ、ひたすら漢字の數を増やす議論(量)だけが行はれてゐる。

國語國字改革をやらかした日本人の罪

所詮、略字を基準に漢字を體系化する事は出來はしない。「當用漢字」「常用漢字」の最大の問題點はそこにある。然るに文字コードの議論に於て、さうした問題點が省みられる事が絶對にない。國語國字改革は「既成事實」である。文字コードの議論に於てもそこを「出發點」に議論は進められる。

無茶な話である。

國語國字改革を認めた上での文字コードに關する議論は無意味である。幾ら「理想的」な國際文字コードを作らうとしても、無駄な努力である。惡しき「現實追隨主義」に基いてなされた國語國字改革によつて、國語の文字は既に「理想的」な状態ではない。

國語國字改革は、日本語の文字を全て機械で扱へるやうになるとは想像も出來ない人間がやらかした改革──或は國語改惡である。しかも、日本人と支那人はそれぞれ勝手に文字を改めた。兩國の略字には互換性がない。それは、國際文字コード策定の最大の障礙である。下手に國語を破壞するから、今になつて附けが囘つてきたのである。

國語國字改革を撤囘出來ない癖に、全うな文字コードを作らうと努力するのはお笑ひぐさである。繼接ぎに繼接ぎを重ねた出たら目なunicodeで日本人は我慢するがよいのである──しかし、日本人の都合で世界中の人間が迷惑する。出たら目な文字コードを世界に押付けた日本の國語國字改革は、大東亞戰爭を遙かに凌ぐ世界的な犯罪であつたと言へよう。

「漢字統合」の誤解と手拔き

日本、支那、韓國の漢字を統合すると云ふ方針にいきり立つ人間がゐる。同じ漢字なのだから統合されてしかるべきなのだが、いまだに民族主義的な思想を持つ人間は、民主化された現代日本にも少くないらしい。

字形と文脈から、同じ字であると定められる漢字は幾らでもある筈だ。「鮎」のやうに日中間で意味が異る漢字もある、だから日中の文字コードは別でなければならない、と云ふ主張もあるが、漢字の意味の異同は一字一字檢證されるべきである。或幾つかの字に問題があるから漢字の體系全體に問題がある、と云ふ主張は成立たない。全體として、日本の漢字體系と支那の漢字體系が一致するならば、兩者の文字コードは一緒で良い。

しかし、多くの人間が調査を行ふ手間をとにかく省きたがる。「そんな事を悠長にやつてゐる暇はない」と言ふ。確かに字典を作るのは研究者にとつて「一生の大事業」であらう──時間がかかるものである。だが、文字コードは何萬、何億の單位の人間が使用するものではないのか。策定には十分な配慮が必要ではないのか。

「理想的」な文字コードを作らうと言つた口から、現實的な言ひ譯が飛出る。文字コード策定に、字典編纂以上の努力がなされない。出たら目である。

全て世は事もなし

しかし、出たら目な文字コードがはびこつても、恐らく誰も困りはすまい。出たら目で不便であつても、「それが當り前だ」と思ひ込むのが可能ならば、人間は不便を不便と思はないで濟ませられる。いかに不便なものでも、それが「當り前」と云ふ事であるのなら、皆適當な理由をくつつけて頭の中で勝手に合理化するからである。

未開人は無智の爲に不便な環境にあつても、「それはタブーだ」と言つて、不便を不便と感じない。今、PC上には澤山のタブーがある。國語國字問題や文字コード問題の議論は現代のタブーである。ならば現代は所詮は未開社會なのである。技術が進歩すると、世の中は未開社會に退歩する。

國語國字改革や文字コード問題がおほつぴらに問題には出來ない事、徹底的にタブーとされてゐる事は、國語國字改革推進派が愚民政策であつた證據である。しかし、現代の日本人は、未開人と一緒だから不便を不便だと思はず、國語國字改革の附けを拂はされてゐるのに氣附かない。略字を用ゐる事で發生した樣々の問題を無視し、改革推進派の宣傳文句を信ずる事で、日本人は皆不便の「合理化」を行つてゐる。

杜撰な文字コードを作つた附けを、我等の子孫は平氣で拂ふだらう。「現實的」な文字コードは成功するだらう。だが、「現實的」と言へば何事も現實的なものとなる、と云ふ「信仰」は、古代の言靈信仰と變らないのである。