制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成十七年一月十四日
「闇黒日記」平成十七年一月十八日
「闇黒日記」平成十八年五月十七日
公開
2006-10-12

公共放送・NHKはいらない

1

中川さんと安倍さん、及びNHKによると、政治的壓力は無かつた、番組の改變もなかつた、と。朝日新聞の誤報である、と。一方、朝日新聞に據れば、ちやんと取材したから間違ひはない、と。何が眞實なのやら、さつぱり解りません。 報道機關にはいろいろと問題がある。

「報道機關は公正・中立でなければならない」と云ふ規定なり何なりがある事。報道機關の報道を監督する機關なり機構なりが無い事。報道機關の偏向報道を抑止する第三者の介入手段が存在しない事。報道機關が公正でも中立でもない偏向報道を勝手に出來てしまふ仕組になつてゐる事。實際にどんな報道をしてゐても報道機關が「俺逹は公正・中立である」と主張してしまふ事。

今のNHKの存在もをかしい。NHKは、國民が出した金で運營され、國會が豫算を決めるにもかかはらず、國の機關ではなく、國を批判する番組を平氣で作る反體制的なTV局である。かう云ふ中途半端な存在だから、介入があつただの無かつただのと騷ぎを起すのである。NHKではなく、國が支配する國營放送であつたならば、政府・政治家が番組制作に口を出すのは當り前となる。その方が良いと思ふ。

民間のTV局も、公正だの中立だのと言つてゐないで、うちは右翼だ、うちは左翼だ、と立場を明かにした方が良いと思ふ。

それでは報道の公正・中立が守られないではないか、と反論する人もゐるだらう。しかし、報道なんて物が中立である訣はないのである。ならば、最初から、右翼の立場から、或は、左翼の立場から、うちは報道してゐます、とTV局が言つた方が、視聽者もTV局の報道を鵜呑みにしなくなつて、良いだらう。と言ふより、今のやうに、視聽者がTV局を信用してゐるのは良くないと私は考へる。我々國民は、TV局に批判精神を預けてしまつてゐる。TV局が國なり何なりに批判的である時、自稱「公正・中立」のTV局の主張を視聽者は鵜呑みにする。それでは國民の批判精神は育たない。寧ろ、右翼だ左翼だと言ふTV局の報道を觀させられれば、其れを批判する事で國民は批判精神を養へるだらう。そして、右翼なり左翼なりの立場にもかかはらず、捏造や好い加減な報道が少い側、評判の良い側が出て來れば、國民はそれを參考に、支持する對象を決定出來るだらう。今のやうな、表面的な「公正・中立」の陰に隠れて、TV局が偏向報道を繰返してゐる現状では、國民はTV局の報道に振囘されるだけである。

國の立場から報道する國營放送、其れを擁護し支持する體制側の放送局、反體制の放送局、またそれらとは別に獨自路線を取る放送局――そんな個性的で多樣な放送局が幾つも存在すれば、少くとも今よりTVは面白くなるだらう。

2

と言ふかさ、「報道者は、自分自身で完璧にバランスを取つて、完全に公正・中立な報道をやりなさい」だなんて、報道者の完全性を想定した非人間的で無茶な規定だと思ふよ? 皆當り前のやうな顔をして論じてゐるけれども。「NHKは政治家に御伺ひを立てちや駄目!」「政治家は一切口出ししちゃ駄目!」なんて、なんとも融通のきかない話だし。法律の規定ががちがちで融通がきかないところに、運用もまたがちがちで融通がきかないだなんて、ねえ。

3

NHKは「公共放送」なのださうだが、民放だつて公共性は「ある」だらう。ならば、公共のものだからと言つて受信料支拂を義務化せねばならない必然的な理由なんて、無いのではないですか。

もし受信料の支拂を義務化すると言ふのなら、「公共放送」のNHKは廢止して、國營放送にすべきだ。國になら御金を拂つても良い。「公共放送」なる鵺のやうな存在に御金を拂ふ義務なんてをかしいと思ふ。こつちは「公共放送」をやつて呉れと頼んだ覺えはない。

と言ふか、そもそもNHKなんて要らないんでないか。なんで誰もNHK廢止論を唱へないのだらう。實際、NHKが何うしても無ければならない理由なんて、一つもない。「民放に出來ない事」を「NHKは出來る」と言はれるかも知れないが、本當に「民放に出來なくてNHKだけに出來る事」なんて「ある」のだらうか。同じ放送局なのだから、民放もNHKも「出來る事」なんて大差ないだらう。別にNHKだけを「公共放送」として區別しなければならない理由なんて無い。民營放送に對して國營放送と云ふ對立ならあり得るが、民間放送に對して公共放送と云ふ對立はあり得ない。