未だに"Web Log"略して「ブログ」と云ふ言葉に違和感を持ち續けてゐる。
logは、丸太とかの意味でないならば、「航海日誌」の類、船や車で旅をしてゐる間の記録で、diaryではない。が、では「日誌」と「日記」の違ひは、と考へても――少くとも英和辞典は役に立たない。この邊、ぐぐつても、大體の解説サイトが大した解説を載せてゐない。最う記號として「weblog」或は「ブログ」なるものが存在してしまつてゐる、と云ふ前提の下で、機能面から説明して、わかつたやうなわからないやうな事になつてゐる。
そもそも「ブログ」と云ふのは、日本人がよくやつてゐた「ウェブ日記」が海の向うではメジャーでなくて、なのにそれが突然目立つ事件があつたから、飽くまで向かうの連中の間で「あつた」と認識されたものだ。實は「ウェブ日記」も「ブログ」も、もともと違ひはない。ただ、發達の過程で、日本の「日記システム」が「制作者が投稿する仕組」を發達させたのに對し、あつちの「ブログ」が「コメントする仕組」を發達させたのが、日本人にとつて「目から鱗」の大發見に見えた――そして「ウェブ2.0」と云ふ言葉で、古臭い「インタラクティヴ」の概念が再生されたのと連動して、妙に目立つ事になつて日本で「ブログ」なる言葉が大流行したそれだけの事にすぎない。「日記CGI」も「ブログツール」も結局のところ「廣い意味でのCMS」に入る訣で、ただ、「ブログツール」の幾つかが海外でCMSのツールとして高く評價されたから「これからはブログの時代だ!」と海外で思はれるやうになり、海外信仰の篤い日本にもさう云ふ思想が上陸した、と、さう云ふ事だ。
が、さうなると、ますます「ブログ」と云ふ言葉の怪しさが際立つ。殊に日本では、海外の本來の意味から離れて、「ブログ」の概念が極めて特殊な狹い意味のものに限定されてしまつてゐる。もちろん、そのやうに斷定してしまふのも、俺自身あつちの「ブログ」もこつちの「ブログ」もよくしらない訣で、危險なのだらうが、にもかかはらず過去の日本人の歐米思想受容の歴史を鑑みるに、今の「ブログ」についても同じやうな類推が可能のやうに思へてしまふ。
と言ふかさ、なんで未だに「ぶ」ログと云ふ、嫌な語感の言葉を、日本人が當り前のやうに使へるのかと。最初に「ぶ」がつくんだぜ、「ぶ」。嫌な言葉だと直感的に思はないか。少くとも恰好いい言葉ではないだらう。なのに普通に「ブログ」なんて言つて、誰も恥かしがらない。
最近の日本人のセンスは異常だ。
俺なんか、小馬鹿にしながらでなければ、「ブログ」だの「2.0」だのと言へない。「闇黒日記2.0」なんか、最うげらげら笑ひながら、我ながら下らねえタイトルをつけたなーと思ひつゝ、つけた。さうしたら、これが「ふざけたタイトル」だと誰一人解らない。解らないで「野嵜サンは、ブログを馬鹿にしてゐた筈なのに、なんとブログを使つてゐる!」などと、大眞面目に言ふ人が出て來る始末。「使ふ」となるとすぐ「大眞面目に使ふ」事になつてしまふのだからをかしい。俺のサイトを讀む人は、福田さんの本を讀めよ、讀んで理解しろよ、福田さんは「演戲する」と云ふ事を、何度も言つただらう。もつとも、福田さんの本を讀んでも、馬鹿みたいに眞面目な人には解らないのだらう。「喜」なんかは永遠にわからないだらうと思ふ。あれくらゐ糞眞面目で融通のきかない馬鹿も珍しい――と言ひたいが、あゝ云ふ馬鹿は何うもウェブに限らず日本には矢鱈めつたら存在するやうなのだ。
「ブログ」なんかも、日本人は眞面目に受取り過ぎてゐる。ジャーゴンだから――と言ふ人もゐるけれども,ジャーゴンならば不眞面目な言葉だと理解したら良いだらう。なんでいまだにブログブログ言へるんだらう。好い加減すたれてもいい頃と思ふのだが。