制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成十七年十月二十二日
公開
2005-11-20

「ブログ」における記事の價値

「ブログ」の制作者には、一續きの内容であるのにも拘らず、ただ單に「書いた日が違ふ」と云ふだけの理由で、新たに別個の記事を作つてしまふ人がゐる。何うかと思ふ。と言ふか、さう云ふ風にしか使へないやうに作られてゐる時點で、現状の「ブログ」ツールには根本的な缺陷があるやうに思はれる。

現在の「ブログ」は、個々の記事の獨立性が極めて強い一方、記事と記事との關聯は僅かに「カテゴリ」で大雜把に分類する事によつてしか示せない。○月○日の記事と×月×日の記事が「連續してゐる」と云ふ事は、毎日讀んでゐる常連ならば「気附く」事が出來るかも知れないけれども、屡々「一見の客」には判らない。特に、後に續きの記事を追加した時、前の記事にその「後の記事」との聯關を示す「標識」のやうなものを「置く」のは、「ブログ」の一般的な慣習として定着してゐないし、さう云ふ事が出來るやうになつてゐない「ブログ」ツールも多い。

現状の「ブログ」は、個別の記事でコメント等が就いて獨自に話題が發展して行く事はあり得るけれども、それらの個別の記事を綜合して體系的なサイトを構築する事は出來ないやうになつてゐる。話題となる記事はあり得るし、さう云ふ記事が日々、續々と「投稿」されてゐる「ブログ」は「人氣ブログ」となり得る。けれども、さうした「話題の記事」は、「投稿」されてから數日間しか話題にならない。それ以後も、參照される事はあつても、最早コメント欄は活況を呈しない。

今、「ブログ」の「記事」について「投稿」と書いたけれども、通りすがりなり常連なりのコメント投稿者に限らない、「ブロガー」であつても、「記事」は「投稿」するものだ。「ブログ」は、實際には掲示板と全く變らないシステムである。虹裏のやうな掲示板で、スレを立てられる人間が限定され、コメントが附いても「上がらない」場合、その掲示板は最早「ブログ」と區別出來ない。トラックバックは「ブログ」の本質ではない。

コメントを附けられるインタラクティヴな「ブログ」は、掲示板と區別出來ない。X51.ORG : Occult News for Nerds, Truth is Out There.は、アレなニュースサイトだが、コメントの附き方を見ても、「ブログ」或は「掲示板」と區別が出來ない。ただ單に「制作者だけがスレを立てられる」と云ふ點だけで、一般の「掲示板」と區別されるに過ぎない。

「ブログ」にしてもスレッド式の掲示板にしても、記事にコメントが附くのは話題として新鮮な短い間に過ぎない。一定の期間が過ぎると、最早「議論の場」としてその記事・スレッドは機能しなくなり、顧みられなくなる。後々、參照される事はあつても、最早そこが「議論の場」となる事はない。

奇魂の掲示板でも問題になつてゐたが、掲示板の投稿は、本當に「その場限り」のもので、後々活かされる事が無い。檢索機能で「探してゐる情報」が「引掛かる」事はあり得る。けれども、整理された情報を閲覽者が得る事はない。それは「ブログ」も同じである。現在の多くの「ブログ」において、情報は未整理のまゝ放置され、閲覽者に制作者が一貫したプレゼンテーションを行ふ事は不可能である。

「掲示板」「ブログ」と同樣の傾向を持つインタラクティヴなサイト構築のシステムに「Wiki」がある。個人的に「Wiki」と云ふ名稱が氣に入らないのだがそれは兔も角、「Wiki」もまた情報の整理を苦手とするシステムである。リンクが張り巡らせられる事、記事を檢索しなくても思ひ附いた單語をウェブブラウザのURL欄に突込めば即座に記事が出て來る事等、それなりに「便利」ではあるのだが、致命的な缺陷として「全ての記事が全く同列に扱はれる」と云ふ事が言へる。カテゴライズをするには、Wikipediaのやうに「見出し語に規則を設ける」と云ふやり方をするしかない。

複數の投稿者が寄つてたかつてサイトを構築する――「We」が「blog」すると言はれる所以だが、「サイト制作者」の立場は何うなるのだらうか。言ひ方を變へよう。「I」ではなく「We」がサイトを制作する時、そのサイトは何んな魅力を持ち得るのであらうか。藝術は全て例外ナシに個人の制作するものである。集團藝術であつても、成立した藝術の魅力は常に統率者の個性の魅力である。そして、人が「惹きつけられる」のは、個人の魅力にであつて、集團の「魅力」にではない。Wikipediaの記事は個性を持たないのが當り前であるし、個性的である記事はWikipediaでは場違ひである。が、さうして成立した記事が、公正であるとしても、無個性で無味乾燥な代物である事は言ふまでもない。そこにあるのはただの情報に過ぎない。我々は屡々、正確を求める餘り、人間味を持たない記事を書き勝ちである。が、さうした記事許りを含むサイトは、閲覽者にとつて何であるのだらうか。サイトが、單なる情報源であるならば、一度情報が古びたり價値を失つたりしたら、最早閲覽者は立ち去る許りで二度と見には來ない。實際のところ、ウェブのサイトには、餘りにも早く價値を失ふ情報源が多過ぎる。