またなんか變な言葉が生み出されてゐる。赤肩かも知らんが一往。
別に新しいものなんか何も出て來てはゐないのに、かうやつて言葉だけで「新しいものが現れた」みたいな風調が出來上がつてしまふのは、ウェブの惡いところ。「ブログ」も「Wiki」も、別に新しいものでも何でもない。それをわざと「新しい!」と言つて喧傳して廻る馬鹿がゐるから、すぐにをかしなブームが起る。インターネットには變革なんて起きてゐないよ。昔ながらのTCP/IPがあるだけだ。
一往リサーチ。「Web 2.0」でぐぐつてみた。
良くわからないが、インタラクティヴでダイナミックでシームレスなサイトが「Web 2.0」らしい。誰かが新しく「Web 2.0」なる規格を作つたとか勸告したとか、そんな事ではないらしい。漠然としたアイデアであり、ただのムーヴメントであると。
ネットワークの本質が「繋がつてゐる事」であるならば、別に「Web 2.0」なんて大袈裟に言はれてゐる事もそんなに「新しい」事ではないと思つた。ただ基礎的な概念に基いて應用がなされただけだ。
「ブログ」なんかにしても結局のところ掲示板と紙一重の差しかない。「Web 2.0」なんて言はれてゐる「もの」も、既存のインフラとは「とんち」レヴェルで「違ふ」だけでしかない。が、さう云ふ「アイデア」の「素晴らしさ」だけで「Web 2.0」はもてはやされてゐる。今は「アイデア」の時代である――嫌な時代だ。
「Web 2.0」はスローガンでありキャッチコピーである――「そんな風なウェブサイト」を「みんなでつくりましょう」と、さう云ふ事を言つてゐる。で、斯かるスローガン・キャッチコピーを用ゐて、ウェブに運動が起きてゐる訣だ。
と言ふか、「Web 2.0」はティム・オライリーが言ひ出した事である訣で。
單に一個人が「ウェブを何う見てゐるか」と云ふだけの事に過ぎない。オライリーさんはウェブに或種の潮流が見られると、さう感じた訣だ。そして、ちよつと前のウェブと今のウェブとでは、「何かが違ふ」と、さう思つた。それで、コンピュータ屋らしく、ヴァージョンナンバで呼んで見た。それが「Web 1.0」とか「Web 2.0」とか言つた言葉。
けれども、どうもオライリーさんの「Web 2.0」の纏め方、偏つてゐるやうな氣がする。どうもオライリーさん、「このウェブでビジネスを始めたばつかりの企業が、ちよつと前にはどんな事をやつてゐたのか」と云ふ事と「先進的な企業や開發者が今どんな事をやつてゐるのか」と云ふ事とを比較しただけのやうに見える。
比較としてどれだけ妥當性があるのか、疑問がある。或は、妥當であるとしても、それが「妥當である」範圍は限定的に考へるべきではないか。
ビジネスとか何かとかについては、「Web 2.0」のスローガンの下、提唱されてゐる・指摘されてゐるアイデアは、或程度の有效性を持ち得るだらうとは思ふ。けれども、「Web 2.0がウェブを救ふ」みたいに、ありとあらゆるウェブのリソースにまで適用範圍が擴大されるとしたら、それは餘りにも胡散臭い。なんか日本の個人サイトまでもが「Web 2.0」「Web 2.0」と言つてもてはやしてゐるのを見ると「うまく乘せられてゐるなー」と思つてしまふ。
どうも「Web 2.0」には樂觀的な見通しが「ある」やうで、其處が何うも胡散臭い感じがする。例の「乘り遲れるな」式のやり方で、先進的なユーザをムーヴメントに卷込まうとする意圖が感じられる。そして、先進的である事を以て自任する一部のユーザが「さう云ふ意圖は兔も角として、やつぱり新しいつぽいから乘つて見る」と云ふ受身の態度でムーヴメントに追從(追從である)して行かうとしてゐる氣配がある。
野嵜は以前から、インタラクティヴなサイトの意義、ダイナミックなコンテンツの意義に疑問を呈して來た。JavaScriptのやうなものを利用した「ダイナミックHTML」なる概念には徹底的に反對して來た。ところが今、「Web 2.0」が出現して、「みんなで動くコンテンツを作りませう」とやつてゐる。
「今度はブラウザの中で動くのではありません、サーヴァの中で動くのです」と云ふ訣だが、何でそんなに動かしたがるんだらう。プログラマは何でも動かせば良いと思つてゐる。しかし、どうもユーザの側の事はあんまり考へられてゐないやうな氣がする。「便利になればユーザは貢献して呉れる」みたいな樂觀的な見方が「Web 2.0」には「ある」。
ウェブサイトがスタティックである事にも十分過ぎる程の意義がある。「圖書館」としてのウェブの使はれ方は、現在でも有意義だ。何でもかんでもインタラクティヴでダイナミックにすれば良いと云ふものでもない。掲示板荒しの横行、トラックバックスパムの横行、といつた事を考へれば、單純に「誰もが參加できるウェブ」が素晴らしいものであるとも言ひ難くなる。「ブログ」のコメント欄が屡々「炎上」し、それによつてサイト制作者がサイトを潰してしまふ事は、「個人サイト」ではあり得る事だ。
だが、さうした事態は、實は、企業サイトではより大きな規模で起り得る。その邊の問題が「技術革新」の美名の下に隠蔽されてゐる。「何か素晴らしい事だけが現はれる」と云ふやうな事ばつかりが「Web 2.0」では言はれてゐる。「胡散臭い」と何度でも言ふ。何と言ふか、「新しいものは素晴らしい」式の發想が「Web 2.0」なる「パラダイム」の提唱の根柢には「ある」やうな氣がする。だが、それは本當か。
「Web 2.0」の支持者は、「Web 2.0バブル」なんてものでも招來しようとしてゐるのではないか、と勘繰りたくなる。しかし、GoogleやAmazonといつた「Web 2.0企業」が、今後も存續して行くか何うかは、まだわからない。
それに、Netscape對Googleのやうな比較は、解り易いけれども、單純過ぎて、拔け落ちてしまつてゐるものも多いのではないか。故意の「見落し」も多いやうに思はれる。Operaは何うか。楽天は何うか。msnは何うか。Yahoo!ですら、先進的なユーザは最早餘り利用してゐない印象がある。廣告モデルに就いては、ユーザは何であれ廣告ならば目障りである、と今でも考へてゐる。P2Pのファイル共有は、やはりアングラ的な利用が今でも多い。さうした現状を「ありのまゝ」に捉へた分析が必要ではないか。「Web 2.0」は、分析の結果ではなく、希望に基いた樂觀的な見通しに過ぎないのではないか。
「Web 2.0」のムーヴメントに乘るのは、寧ろ主體性に缺ける事である、と評する事しか出來ない。
網羅的ではありません。