制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十二年一月三十日
公開
2010-02-28

「名無し」だなんて嫌だなあ

平成二十二年一月三十日
「名無し」と云ふハンドルが大流行するのは、とても惡い事だと思ふ。なぜなら、事實として我々は全て、一人の例外もなしに、名前を持つからだ。
名前のない人間は――少くともウェブをやつてゐるユーザの中にはゐない。名前を出してゐなくても、それは「匿名」であり、意識して名前を匿してゐるのであり、「事實として私には名前がない」等と云ふ事はあり得ない。
詰り、「名無しさん」を名乘つてゐる人は一人の例外もなく全員嘘を吐いてゐるわけだ。
ところが「嘘吐き」である事を「名無しさん」は「後ろめたい事だ」と全く思はない。「匿名希望」ならば、「名前を匿す」と云ふ意識的な行爲をしてゐると云ふ自覺を伴はざるを得ない。が、「名前がない」と云ふ言ひ方では、自分の状態を「ありのまゝ」に表してゐるかのやうな表現であり、よつて自分が意識的に態度を撰擇してゐる自覺を持つ事が出來ない。
けれども、物を言ふのに名前を匿すのは「責任をとらない」と宣言するやうなものだ。無責任な言論は惡い事であるから、匿名の發言は全て例外なしに惡い事だと言へる。「匿名でする告發」も、「善事」ではなく「必要惡」であるに過ぎない。我々は、無責任な言ひつ放しが惡事である自覺を持つべきであり、だからこそ匿名での發言に關して、人は後ろめたさを覺える必要がある。が、「名無しさん」を名乘るユーザはほぼ全員、後ろめたさを覺えない。「事實として自分は名前がないのだから仕方がない」のやうな誤認識を彼等は全員持つてしまつてゐる。「名前を匿してゐる」と云ふ積極的な態度を自分がとつてゐると云ふ意識・自覺が彼等にはない。
平成二十二年一月三十日
もともとインターネットは實名主義の社會だつたが、それは商業利用が禁止されてゐた時代の事。商業サーヴィスが解禁されて以降、匿名を用ゐる事が「一般化」した。が、それは、商業的な理由に基いてゐる。即ち、Yahoo!が積極的に「匿名サーヴィス」を謳つてユーザを集めたのであり、後に2ちゃんねるが匿名掲示板として賣出したのであつた。ユーザに「氣樂になれる」サーヴィスを提供して、ユーザを獲得しようとしたわけだ。それは、ユーザに無責任なウェブの使ひ方をさせようといふ積極的な意圖があつたわけで、大變惡質なものだが、Yahoo!はそんな事はお構ひなしに金儲けの爲に屑のやうな事をやつたのだし、2ちゃんねるは元の管理人が屑だつたからどうしやうもない。結果としてインターネットは屑だらけのインターネットに成下がつたのだが、屑のユーザも自尊心だけは一丁前にあるから、自分が屑であると認める事が出來ない。プライドだけあつて責任感がない事を、例へば私に粘着してゐる匿名の人々は散々非難してゐるが、さう云ふ人々こそ問題のあるユーザである事を自覺する必要がある。もちろん、彼等は自覺する契機がない。匿名は、批判されない=免責されてゐるからである。
平成二十二年一月三十日
基本的に性善説に基いて構築されてゐるシステムを商業利用に開放するから、惡人がなだれ込んでアングラ化する。當り前の話だ。