制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年十二月七日
公開
2010-02-28

匿名でなければならない社會

平成二十一年十二月七日
匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏 - livedoor ニュース
匿名派の人間は、自分の都合しか考へてゐない。兔に角、發言者にとつてメリットがあるか何うかだけを考へてゐる。
實名派は、自分の損得勘上を閑却して、世の爲人の爲に議論を盛上げようとしてゐる。
――匿名のメリットとか美點とか言つてゐるけれども、「匿名でしか物を言へない状況がある」事を、匿名派の人々は肯定したいのか、否定したいのか。匿名でなくても普通に物を言へる状況を作らうとする事こそ必要なのだが、意地でも匿名の假面を被つてゐたいと平氣で言ふ人が多過ぎる。
なるほど、匿名が必要な場合はある。が、それは、美點・メリットと言つてよいものではない。不合理な状況があつて、強ひられて匿名を撰擇させられる人がゐる、と云ふだけの事だ。

誰が「何を言ったか」を偏見なく純粋に議論することの好例として、小飼氏は19世紀ロシアの女性数学者、ソフィア・コワレフスカヤを取り上げ、「女性であることを理由に数学者となる機会が与えられなかった彼女を救ったのは、匿名だった」と匿名の美点を称賛している。

誰が何う考へても、女性であることを理由に数学者となる機会が与えられない現實は不合理だ。さうした不合理な状況は改善されなければならない。匿名で發言せざるを得なかつたのは、女性差別と云ふ不合理な状況下で、女性が已む無く撰擇させられた方便であつたわけだ。それはメリットではない。そして、重要な事だが、ここで彼女の匿名を肯定すると云ふ事は、即ち、女性差別を肯定しようと言ふ事にほかならないのだ。匿名でなくても女性が普通に數學者になれる、と云ふ、差別のない状況が出來れば最もよいのであつて、差別がある状況下、差別されてゐる人が匿名でさうした状況をかひくぐらうとするのは、次善の策に過ぎない。と言ふより、匿名の假面を、彼女は嬉しく思ひながら被つてゐた筈がない。匿名でなければならない状況を、嫌で嫌でしやうがなく思つてゐた筈だ。今はさうした嫌な状況は、以前に比べれば改善されて來てゐる。そこで依然として匿名の盛んな使用が續いてゐるのを見たら、彼女は何う思ふだらうか。大變好ましい事と思ふだらうか。
匿名派の人々は、一人として、惡い現状を打破して、世の中を良くしようとする氣がない。寧ろ、惡い状況を理由に、自分も惡い事をして、得をしようとしてゐる人が、壓倒的に多い。そして、さう云ふ自分の嫌らしい行動を正當化する爲に、本當に匿名を必要としてゐた虐げられた人々を、氣樂に利用しようとしてゐる。今、匿名を用ゐてゐる人のうち、どれだけの人が、切實に匿名を必要としてゐるだらうか。
論者のメリット・デメリットだけが論點となり、議論をする目的が完全に忘れ去られてゐる。そして、現實に匿名の人間が行ふ議論が決して有益なものでないと云ふ事實も故意に隱匿されてゐる。匿名派の人間は、「偏向した報道」を行つて「ネット世論」を誘導し、自分逹に都合の良く世の中が動いて行くやうにしようとしてゐる。匿名を利用して快を貪つてゐる人は、極めて多い。自分の事ばかり考へて、他人の事を考へない人は、明かに匿名派の人間に多い。インターネットで問題を起すのは匿名派の人間だ。實名派の人間は、問題を起さないか、起しても當然の報いを受ける。だが、問題は、さうした「報いを受けた人」が再起できないのが今のインターネットである、と云ふ事。一度問題を起したと云ふ、ただそれだけの事で、一切の發言が封じられてしまふのだ。そんな事が許されて良いわけがない。ところが、匿名派の人々は、「問題児」の發言を暴力で封じ込めるのは良い事だと信じ――それを實踐する。これは、公開の場での議論を破壞し、言論の自由を否定し、ひいては民主主義の打倒を齎す危險思想だが、匿名派の人間は一人として自分の思想が危險思想だと思つてゐないし、反省する機縁もないから反省しない。のみならず、暴力的な行動を抑制するシステムも存在しないから、平然と暴れまはる事が出來てしまふ。
インターネットには斯うした現状があるのだが、さう云ふ現状が匿名派の人々には心地よくてたまらない。匿名派の人々は、自分がぬくぬくと生きてゐる現状を肯定してゐる。實名派の人々は、それに對して、安穩に生きる事が出來ない状況を敢て主張してゐる。匿名派は自己肯定を前提とし、實名派は自己否定を前提としてゐる。多くの人は、自己を肯定出來る匿名主義に加擔する。だが、自己肯定を前提とした態度・思想は、批判を受附けない、獨善主義に直結してゐる。批判こそが重要である事はポパーが強調してゐる事だ。
今のインターネットは、批判それ自體が成立たない非道い状況に陷つてゐる。明かに、匿名派が、匿名のみならず、ありとあらゆる方法で自己肯定を劃策し、快を貪つてゐるせゐだ。彼等は、自分が主張したからには自分の主張は正義であると堅く信じ、自分の誤を指摘されると不愉快になつて、感情的に批判者を罵り始める。その時、匿名と云ふ手段があるからには、積極的に利用する事になる。彼等は平然と、陰濕で冷酷な復讐を行ふ。けれども、その結果として、批判は封じ込められ、誤は訂正されず、間違つた事が世の中に幅を利かせる事になる。それでは困るのだ。彼等匿名者は、主觀主義をとり、自分の外部に客觀的な正しさがある事を認めない、と云ふ理論を振りかざして、自己防衞をはかる。だが、自分の主張は否定されるかも知れないし、正しい事實・眞實の前に自分の誤が訂正されるのは快い事であると考へる人ならば、批判は必要だと考へる。
もちろん、匿名主義でも實名主義でも、誤が訂正されるシステムがうまく動いて行けばいい。……ただ、匿名主義でやつて着た結果、今のインターネットは誤が巧く訂正されない状況に陷つてゐるのだ。理窟だけなら何とでも言へるが、匿名主義が良くない状況を齎してゐる現實がある。我々は現實を見なければならない。
平成二十一年十二月七日
要は、匿名を必要としてゐるのは惠まれない人だけである、と云ふ事。今のウェブはそんなに切實に匿名を必要としてゐる人許りなのか。それにしてはみんな暢氣な話に花を咲かせてゐるやうに見える。
惠まれない人が惠まれてゐる人と互角に渡り合ふ爲の武器が匿名なのであつて、それを惠まれた人間が使つたら――結局惠まれた人間が益々有利になるだけの事になる。その時、その人間はただただ甘やかされるだけになり、結局つけ上がつて好い氣になるだけの事になる。フェアな精神の持主なら、自分にメリットがなくても――と言ふより、ないがゆゑに――敢て匿名なる武器を用ゐない態度をとるべきだと言ふ事が出來る。逆に言へば、惠まれた人間が匿名を武器として用ゐるのはアンフェアだと云ふ事。