制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年五月/八月
公開
2009-12-06

匿名社會の根本問題

平成二十一年五月十三日
実名かどうか - カナかな団首領の自転車置き場
はてなブックマークコメントをマイナス評価で非表示にするという話 - カナかな団首領の自転車置き場
ブクマコメントは下品で勘違いばかりだから表示しない方がいい - カナかな団首領の自転車置き場
はてなブックマークは単独表示できるようにならないの? - カナかな団首領の自転車置き場
「氣に入らない人間を罵倒する爲」に活動をする人は「ゐる」のであつて、それが問題である、と云ふ事は、案外認識されてゐない。そして、さう云ふ問題についてこそ考へなければならない、と云ふ事は、誰も氣附いてゐない。
はてなでもTeaCupでも、IDを取つて、「ブログ」でも何でも立上げて、「くっく」と嘲笑つて見たり、「信者」は何うだと極附けたり、一方的に罵倒を浴びせる、なんて惡意の塊のやうな人は「ゐる」んであつて――で、それに對して、はてなやら何やらのシステムを問題にする「善意の人々」がゐる訣だが、システム弄りをして樂しんでゐるだけで、意味のない事だと思ふ。
繰返すが、問題は、システムを利用してろくでもない事をするにある。さう言つた人の言動を「見ない」とか「マイナスに評價する」とか、皆いろいろシステムを考へてゐる――「對抗的なシステムを作る」アイデアを皆、智慧を絞つて捻り出さうとしてゐる。けれども、結局、それは「システム作り」を樂しんでゐるだけだ。何度でも繰返すが、問題はにある。と言ふか、問題のある人が「ゐる」のである。その事をもつと考へなければ行けない。勿論、考へても結論が出る訣はないが、だから手取り早くやつつけで何とかしてやらうと皆、システム作りの事を考へてゐるのである。が、それは逃避行動と云ふものだらう。
一人でぶつぶつぶつぶつ「呟いてゐる」のは良い。それに好感とか嫌惡感とかを「持つ」のも良い。けれども、それを「自分が見られるやうになつてゐる」と「嫌だ」と言ふ。もつと皆言ひ合つたらいいんだよ。今の「ブログ」のシステム、或は「掲示板」のシステム、問題にするのなら、互ひに「簡單な評價」だけを附けられるに過ぎないシステムであるのが問題だとは言へる。言爭ひのし易いシステムはウェブ上に一つもないんだよ。「はてな」の「ブックマークコメント」は字數制限があるし、コメントにコメントは出來ないし、そもそもその場でコメントできてしまふ事が問題だし、……、「スター」のシステムだつてただ結論だけを表明する爲のシステムだ。「なぜ」その結論に至つたかをコメンテータのやうな人々に出來るだけ表現させないやうに、「簡單なシステム」が提供されてゐる。が、これは、サーヴィス提供者が惡いんではなくて、さう云ふサーヴィスを望んでゐる多くのユーザが惡い。殆ど全ての人が、簡單に結論を言へる事を「よいサーヴィスだ」と心から信じてゐる。けれども、結論に至るまでの思考の過程こそが重要なのだ。それを表現させまいとするウェブの多くのシステムは惡いシステムだが、そもそもさう云ふ惡いサーヴィスを「良いサーヴィス」だと思ふユーザが澤山存在する事が問題なのだ。矢張り根本的にが問題である訣だ。多くの人が、簡單に書く事を、大變良い事だと信じてゐる。そして、澤山書く人を「頭がをかしい」と簡單に判斷するし、場合に據つては「荒し」だと即斷する。が、さう云ふ發想を多くの人が持つてゐる事が問題だ。コメント欄にしても、掲示板にしても、一行書き逃げを容易に出來る粗暴なシステムでしかない。が、さうした粗暴さを「洗練された」ものと殆ど全てのユーザが勘違ひしてゐる。一方、澤山書け、と私に要求されたコメンテータが、無駄口ばかり書込んで、肝腎の理窟を全然書かない、と云つた事態が最近發生した。「解つてゐない」のだ。要は、「理窟を書く」「説明する」といつた事の重要さを、ユーザが一人も解つてゐないのだ。「結論をずばり書く」「極附ける」といつた行爲を、多くのユーザが「とても良い事」だと信じ、少くとも「當り前の事」だと思つてゐる。「何を書かなければならないか」「書かなければならない事をきちんと書くのにどれだけの分量が必要か」を、ほぼ全てのウェブのユーザが解つてゐない。「少い言葉で表現してゐれば、それは素晴らしい事である」と、先づ大體のユーザが心から信じてゐるし、少くとも「或程度は認める」筈である。が、「必要な事が適切に表現されてゐる」事の重要性を、誰も信じてゐない。それが問題なのだが、さうなると、ユーザの知的レヴェルこそが問題だ、と云ふ事になる。けれども――それを言出すと、「ならお前の知的レヴェルは何うなんだ」と周圍から攻撃される事になる。さうした攻撃を「受けたくない」から、誰もさう云ふ事は言ひ出さない。出來るだけの問題は見ないやうにして、誰もが氣樂に話せるシステム作りの話を、無責任に、「しよう」とする訣だ。さう云ふ無駄な御喋りを樂しむ場がウェブだ、と云ふ訣だ。だが、正直言つて、さう云ふ惡口を皆が積極的に引受けようとしない限り、ウェブのやうな小さな社會ですら、良くならないよ。ウェブでは皆が逃げ腰で、當り障りのない事を言ひつゝ、批判に怯えて暮してゐる。そして、「批判する方が惡い」と云ふやうな空氣を作りださうと皆一生懸命努力してゐる。何かが根本的に間違つてゐると思ふ私が間違つてゐるのだらうか。
平成二十一年八月三日
はてなブックマークはもっと積極的にコミュニティを管理してほしい
はてなブックマーク - 炎上との共存 - 今日の雑談
炎上との共存 - 今日の雑談
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炎上騒ぎでの「批判」はただの言い訳 - 今日の雑談
はてなブックマークと2ちゃんねる - カナかな団首領の自転車置き場
みんなはてなユーザである事が、匿名である事と何ら變らないのを忘れてゐる。2ちゃんねらーが匿名で、はてながID制なのとを、嚴密に區別してしまつてゐる。しかしはてななんて、所詮匿名サーヴィスの親戚だよ。
と言ふより、「ブログ」のレンタルサーヴィスは、どれもこれも、匿名サーヴィスに近い。「ブログ」で「信頼」できるものと言つたら、せいぜい有名人がやつてゐるとされるものくらゐだらう。しよこたんブログと言つたらしよこたんがやつてゐると見て間違ひはない(第三者が芸能人の名を騙つたら問題になる)。だが、その邊の一般人が適當にIDをとつて適當に「ブログ」を作れるのだ。ならばそんな適當な「ブログ」をやつてゐる「ブロガー」の信頼性なんて、あつたものではない。
例へば、野嵜健秀氏がISPのJ:COMのサーヴィスを利用してウェブサイトをやつてゐる――世間的に、ISPの提供するメールアドレスは、それなりに「信頼出來る」ものとされてゐるならば、ISPの提供するウェブスペースを利用してゐるのも、それなりに(飽くまで、それなりに)信頼出來るものと看做されよう。けれども、Yahoo!ブログでnozakitakehide氏がやつてゐる「ブログ」が、本當に野嵜健秀氏のやつてゐる「ブログ」だと言ふ事は、案外簡單に出來る事ではない。事實、同じく野嵜健秀制作と稱する「ブログ」が、Yahoo!ブログのサーヴィス内には、最う一つある。
況してや、その野嵜健秀を名乘る人物が、各地の掲示板で「申しわしたぞ」とか書いてゐても、それは果して野嵜健秀氏本人か何うか。東京都在住40歳の野嵜健秀氏が出會ひ系サイトに出沒しても、それが本當に野嵜健秀氏本人か何うか。――。
一方。Kirokuroなる人物が、何處だかのサーヴィスを利用して「ブログ」をやつてゐる。そのKirokuro氏は野嵜健秀氏に粘着して、何年も執拗に中傷を續けてゐるが――「ブログ」を持つてゐるからKirokuro氏は信頼できる人物だ、と言へるか何うか。
もちろん、ISPのウェブスペースにサイトを置いてゐても、同じリモートホストから書込んでゐるのに、アレクセイとホランドとナイルズと、別の名前を名乘つてゐればそれは別人格です、等と眞顏で言ふ人物がゐたりする。常識的に考へて、さう云ふ人物は、何かを勘違ひしてゐるのだが――しかし彼がウェブの匿名性なるものを本氣で信じてゐるとしたら――彼の「言論」は「匿名の言論」である。
――信頼出來ない匿名の人物が、批判をする。これが今のウェブの問題の、一つの原因である……としたら。
本当に恐ろしい「炎上」の話 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
はてなですら、IDをとれるから、そのユーザは信頼出來るものとは、言切る事が出來ない。適當なIDを取つて、暴言を吐き、罵倒を加へ、中傷を行つた後、「くっく」とか言つて書き逃げしたら――やつぱりそのIDによる發言は「匿名の言論」と云ふ事になるだらう。
さうした「匿名の言論」でなければならないし、さうであつていいと皆で思ひ込んで安心してゐる――ところが、それが結果としてウェブの不健全さを助長してゐる。
もちろん、匿名である・ないは、所詮はシステムの話であり、システムを利用する人間の性質が全ての問題の原因である事は言ふまでもない。人間が惡意を持つ限り――それは・野嵜健秀もまた持つのである――匿名だらうが何だらうが、人間は問題を起す可能性はある。さうした人間の、人間それ自體の、本質的な問題を看過して、ただシステムで何うにかしようと云ふだけの「議論」で終るなら、それは「政治的」な議論の域に留まる。
http://d.hatena.ne.jp/adramine/20090803/1249308517
掲示板で他人を罵倒してゐる惡辣なユーザが、例へば煙草のやうな「合法麻薬」を賣つてゐる社員であつたとしても、その販賣が合法である限り、某元國營企業の社員である事を以て非難を行ふ事は出來ない。然るに、「無職に發言する權利は無い」等と、匿名で言ふ人がゐた時に、その匿名氏を信頼してしまふとしたら、それは黨派根性による身贔屓であらう。中傷を繰返し、名前を騙つて名譽毀損してゐる匿名氏の、その行爲を勤務先に通知したら、馘首になる事もあり得る。匿名の外觀は、行爲の實質を全く無にするものではない。匿名だからと言つて、社會的な制裁を免れる權利を得る物ではない。
一方で、トンデモ歴史學を主張し、反對者を「自分に反對してゐる」がゆゑに「掲示板荒し」とレッテルを貼つて大々的に宣傳してゐる人物が、某鐵道で運轉士をやつてゐるとしたら、そんな電車に私は乘りたくないと思ふ。本に名前が出てゐる人物で、一部で有名と云ふ人物でも、多重人格サイコな事をやつてゐるとしたら、やつぱり信用できたものではないだらう。匿名だらうが何だらうが、結局人が問題であるのは間違ひない。
が、さうした人間性を無視して、ウェブは「安全」とかを大義名分として匿名社會化し――その結果として、人間の惡い面が顯れるやうになつて來てゐる。としたら、我々は、人間性それ自體を憎みつゝ――或は嘆きつゝ――匿名なるシステムに規制をかける政治的な解決をも、導入する事を場當り的に檢討せざるを得なくなるのでないか。實際問題として、ウェブに於ける「言論の自由」の問題は、相當に程度の低い問題として扱はれねばならない。ところが、その低級な次元でごたごたが存在する爲に、それ以上の次元での議論は事實上、ウェブに於ては不可能と化してゐるのである(可能性の問題として見る限り――理想的な環境下では、ウェブ上での議論は可能である)。日本人の民度の低さは、ウェブで議論が成立たない状況が出來してゐる事實を見る事で、はつきり認識する事が出來る。そして、その民度の低さが、「現實」である限り、「現實的」な日本人は改善する事が、自らの手では出來ないのである。少數の人が如何に高い意識を持たうとも、民度が低いなら、駄目である。