逆に言へば、自分がリンクを張るなり記事を書いて採上げるなりした事が、世間で全然氣にされなかつたりしてゐるならば、それは自分が全然注目されてゐない、と云ふ事を如実に表はしてゐる事になる。
「ブロガー」が「有名になる」「ブランド化する」にしても、「このブロガーが好きだ」と云ふ「信者」が或日突然出現する筈もなく、その「ブロガー」氏がやつてゐる事を評價する人がじわじわ増えて、結果として何時の間にか「ブランド化」なる評價が定着するものだ。
學會では、どれだけ引用されたか・言及されたか、が――もちろん、飽くまで「一つの指標」であるのだが――論文の評價を判定するのに重要なのだと云ふ。ウェブでも同じ。だが、重要な問題だからこそ・興味を引くやうな内容だからこそ、「有名ブロガー」なり何なりのアンテナにひつかかり、多くのその他の人々にも言及されるやうになる、と云ふ事は言へる。それはウェブでなく、專門家の學會でも事情は似たやうなものだ。ろくでもない論文は誰にも採上げられない。しかし、重要な問題を考へてゐる人が、時として過去の埋もれた論文を發掘して、その重要性を世間に知らしめるなんて事は、よくある。
「良い内容の記事を書く」「良い内容の記事を紹介する」――これらの事は糾へる繩の如しで、別々の事ではない。
が、自分で良い記事を書けない・紹介すべき記事を自分で見附けられない人でも、良い「ブロガー」から良い記事のある事を知らされた時、なるほど、良い記事だなあと思ふ事はあるのであり、その時は「良い記事だ」と言へば良い。何處其處の記事を見たら載つてゐた、だから、良くても惡くても、最う自分は何も言はない、のやうな態度は一番間違つてゐる。何でもいいから「言ふ」事は、重要だ。
逆に言へば、默つてゐるのが一番間違つてゐる。自分が默るのを肯定するのは、他人が誰かを默らせようとするのをはたで見てゐて容認するのと同じくらゐ、良くない事だ。
「良い記事」の紹介をする「良いブロガー」がゐたとしても、その「良いブロガー」の「良い」と云ふ評判を作つてゐるのは、無名の「リブロガー」の群だ、と云ふ事は、案外見過ごされてゐる。その「無名のリブロガーになる」事も―― 民主主義の現代と云ふ時代では、「重要」な事と言はれて、然るべきでないか。