制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2006-07-02

何のための「個人情報保護」なのか

昨今、企業のデータベースから個人情報が流出する、Winny等で個人情報が流出する、個人情報が入つたCD-Rやフロッピーディスクが盗まれる、といつた事件が相次いでをり、昨今、個人情報保護への関心が高まつてゐる。が、この関心の高まりは一体何なのか。

個人情報を転載し続ける人々

野嵜は以前、ウェブサイトにはよくある制作者プロフィルで、或程度の情報を公開してゐた。最新の情報は含まず、割と当たり障りの無いやうな情報だつたのだけれども、うちのサイトの内容が内容だけに、或は掲示板で目立つた言動をしたためか、野嵜に粘着するやうな人物(既に五年以上粘着を続けてゐる。自称に由来して「義」と呼ばれる)が湧いて、そのプロフィルを各地の掲示板に(尾鰭をつけて)転載する、といつた嫌がらせが行はれるやうになつた。それでそのプロファイルは削除したのだけれども、相変らず転載は止まず。

それだけなら粘着の仕業と云ふ事で「わかる」のだけれども、その粘着の行動に便乗する人物が現れた。それが「☆☆☆ LIBRA アレクセイの星座 ☆☆☆」なるサイトで左翼的な言動を続けてゐる「論客」・アレクセイ(=ホランド=ナイルズ)氏。アレクセイ氏の掲示板で野嵜がアレクセイ氏を批判したところ、アレクセイ氏は野嵜を掲示板荒しと決めつけ、物凄い攻撃を開始した。その過程で「義」によつて「野嵜のプロファイル」が情報としてアレクセイ氏にもたらされた。アレクセイ氏、「プロファイル」の情報が個人情報である事を知りつゝ、「一度公開された情報だから」といふ理由で盛にその「プロファイル」の情報をばらまくやうに。

このアレクセイ氏の行動にさらに便乗したのが、「右翼」で「帝國電網省」なるサイトをやつてゐる竹下義朗氏。竹下氏、「「明治天皇」は暗殺されていた!!」なる「トンデモ歴史」を發表してゐて、野嵜に批判され、矢張り批判封じのために野嵜を「掲示板荒し」と決めつけてゐたのだけれども、アレクセイが野嵜を非難し始めたのに乗じてそのアレクセイの発言にリンクを張り、或は文書を転載したりして、「同じアンチ野嵜」と云ふ事で積極的に連携をはかりはじめた。その過程で、再び「野嵜のプロファイル」が転載される事態が発生。

なぜ個人情報は保護されるべきなのか

「個人情報を守れ」と云ふ主張は、なぜ行はれるのだらうか。

「個人の情報の保護」は、即ち「個人の保護」の筈であつた。即ち、「個人の人権を守る」と云ふ事だ。プライヴァシーの権利は基本的人権に含まれるとして現在、一般に認められてゐる。

もちろん、戦後になつて認められるやうになつた権利であり、個人主義的な権利と見る事もできるから、「国家主義的な右翼」が否定するのは「あり得る」話ではある。けれども、アレクセイのやうな、国家に反抗する事を良しとする反体制派――即ち左翼の人々が案外、この個人情報の侵害に積極的である事実がある。

反体制派・アレクセイと、ネット右翼・竹下義朗の連携は、一見、奇妙な事に見える。左翼と右翼が、何うして手を結び得るのだらう。ここに、「アンチ野嵜」なる「接点」を指摘する事はたやすい。けれども、なぜ「野嵜」に対立し、「アンチ」であると、異る政治的信条を持つてゐても手を結び得るのか、それを解明しない事には、さう云ふ指摘も意味がない。

結局のところ、「個人情報の保護」を「人権の保護」の一環と看做してゐないのが、右翼の当然の立場である一方で、左翼においても屡々当り前の心理となつてゐるのである。(もつとも、竹下の場合、天皇家に対する礼を失してゐる時点で、「本当に右翼なのか」と云ふ疑問は残るが)

なぜ個人情報は守られねばならないのか。なぜプライヴァシーの権利は侵害されてはならないのか。「だって知られたくない事を知られたら困るでしょ?」――その程度の認識が、日本人では一般的なのではないか。「世間に知られたら困るでしょ」、その程度の認識なのである。けれども、それでは「世間」は「悪」と云ふ事になるのではないか。知つてしまつた個人情報を、世間の人は普通に悪用する、だから「困る」。

ところが、さう云ふ「悪としての世間」が「ある」のなら、所詮、日本人は一般的に「人権意識が低い」と云ふ事になりはしないか。だつてさうだらう、「個人情報は守られるべきである」のに「世間に流出した個人情報は悪用され捲る」のだから。そして、さう云ふ「普通の日本人の認識」があつて、「一度公開された個人情報」の政治的な目的での悪用は、普通に行はれる。

鐵扇會の場合、明かに目的は政治的だ。けれども、アレクセイや竹下のやうな個人であつても、個人情報を悪用する場合、日本的な悪い意味での「政治的な立場からなされる」と云つた事は「言へる」と思ふ。

アレクセイや竹下は、自説を守る「戦術」として、野嵜の個人情報を利用して野嵜の発言を封殺する、と云ふ事をやつた。粘着の「義」の場合、「義」自身の主張は全くわからないが、とにかく野嵜の発言を封殺するのが目的である事は論を俟たない。いづれにしても、彼らは自らの政治的信条を最大の価値と看做し、その目的の前には個人の権利等圧殺されて当然だ、と考へてゐる。

実は、自らの信ずる政治的価値を絶対視し、政治的な大義の前には個人の権利など何の価値もない、と考へるのは、日本人の一般的な「常識」なのである。

人権意識ぬきの「個人情報保護」の発想

「人権派」が多いと言はれる日本の左翼だが、実は彼らの多くが殆ど人権意識を持つてゐない――否、「持つてゐる」としても、それは「同じ左翼」だけが権利を持つてゐる、と云ふだけの事であつて、「右翼」を彼らは「人間として認めてゐない」。

左翼が屡々「右翼」と看做した人物に対して、人を人とも思はないやうな恐るべき冷酷な仕打ちを繰返し、言論を封殺しようとする事実は、さうして説明するしかない。政治的な「ブログ」を数箇所でも見れば、特に過激な意見を発表してゐる「人権派」ほど、「敵」の人権を認めない傾向が「ある」事は判るだらう。

そして、これこそ日本人に人権意識が低い事の明白な証拠である。

が、だから今、野嵜は日本人を、日本人だけを、貶めようといふ訣ではない。世界的に、人権意識は「低い」のであり、さうした事実は特にインターネットでは顕著に現れる。もちろん、正しい人権意識を「持つてゐる」人が「ゐる」事は否定しない。が、「一般的」に彼らが「力を持たない」事は事実であるし、或は、その力を行使しないとすれば、その人は実は人権意識を持たないのである。

左翼はただ、自らを守り、敵を攻撃するために、「個人情報の保護」なる観念を利用しようとは考へてゐる。彼らは、自らの匿名性を守り、敵を弱体化させるために、屡々「個人情報」なる観念を利用してゐる。アレクセイが、野嵜のプライヴァシー侵害を試みながら、自分のプライヴァシーをひたすら守らうとしてゐる態度、これは明かな矛盾であるが、「自分の守りを強固にし、敵を弱体化させる」といふ「戦術」の観点からは「一貫してゐる」。が、さう云ふ「戦術」の観点での「一貫性」に、何の価値があるのだらうか。「個人情報は保護されねばならない」――「ねばならない」は価値観である。「戦術」は現実の問題である。それらは全く異る次元に属するものだ。

人権意識が世間で一般的であつて、それで「個人情報は保護されねばならない」と云ふ常識が定着する。さう「なる」のが「本来」の姿である。現状、個人情報の保護は、ただ現実的な利害の観点から主張されてゐるに過ぎない。それは世界的に見ても「さう」で、特に日本だけが異常なのではない。

が、さうすると、人権意識なるものがそもそも「虚妄」なのではないか。――たしかに「さうだ」と肯定せざるを得ない気もする。とは言へ、「では、人権は侵害して良いのか」と問はれて、「その通り」「人権侵害大贊成」と答へる人はゐないだらう。野嵜も、何しろ個人情報の侵害に反対してゐるのであるから、人権の侵害には大反対である。

さう云ふ理念があつて、しかるに現実はそれを裏切つてゐる。我々は現実を呪はねばならないのだらうか。或意味、人類は呪はれて然る可きだと野嵜は考へてゐる。「義」のやうな人間が「ゐる」事は、人類が呪はれた存在である事を示唆してゐるとすら考へられる。けれども、では「〜すべきである」のやうな主張は「あり得ない」のか。「あり得ない」のかも知れない。けれども、野嵜は依然、主張する。決定的な悲観論者でない。その点で「一貫性がない」と指摘されるかも知れないけれども、別に構はない。矛盾ではないと野嵜は考へる。

話が纏まらないのだが、取敢ず指摘しておいて良いだらうと思ふ事を最後に書いておく。技術的・「戦術」的な主張は、日本では一般的である。けれども、「なぜ」主張されねばならないのか、の反省は必要である。「個人情報」は「なぜ保護されねばならないのか」。「戦術」としての「保護」を主張する人は極めて多い。けれども、それでは駄目なのではないか。価値観としての「人権」――これが余りにも日本では忘れられてゐる。

御役所の作文の中にしか、普遍的な意味での「人権」なる観念が見出せない――そんな現状が「ある」のは、果して日本人にとつて幸福な事であらうか。少くとも俺は、プライヴァシー侵害の「被害者」として、不幸である。