制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
野嵜健秀(@nozakitakehide)/2010年08月31日 - Twilog
公開
2014-12-03

「無断リンク」の病理

「無断リンク禁止」を主張してしまふのは、ウェブにおける發言が公開の場での言論である事實を認識出來てゐないからだ。雜誌に載つた論文について言及・引用があつた時「プライバシーを侵害された」と怒る書き手はゐない。「ウェブに書く」のは「雜誌に書く」のと同じだ、と云ふ意識を持つ必要がある。

勘違ひを勘違ひと認められない人がゐるのも事實ではある。しかし、勘違ひしてゐる人の勘違ひを解かうとするのは正しいし――寧ろその正しい行爲を制限しようとする事こそ、自由の侵害だと言へる。何で正しい事をして惡いんだ。

「正しくない事をする自由もある」と言ふ人もゐるが、それが「正しい事をする自由など存在しない」と云ふ主張に屡化ける。「正しい事等存在しない」と思ふのは、まあ勝手ではある。が、さう思つてゐない人もゐるのだから、さう云ふ人の權利も認めなければ行けない。

しかし「正しい事は存在しない」と言ふのは「權利は存在しない」と言つてゐるのと同義である。正義を人が信じてゐる事實を認めない限り、人の權利を認められなくなる。

「無斷リンク禁止」と言ふ自由があるのなら、「無斷リンク禁止」を批判する自由もあるし、「無斷リンク禁止と言つてゐるサイトにリンクする」自由もある。それこそ「全て自由」なのだからだ。リンクされた「無斷リンク禁止」サイトの人も不干渉になつて「自由を侵害された!」と言はなければいい。

「無斷リンク禁止」と「言ふ自由」はあるが「他人がリンクを張る權利を侵害する」事は許されない。國家を否定する言論には自由があるけれども、實際に國家を否定する行動に出たらとつつかまる。それと同じである。

Twitterの無斷フォローは知らないが、一々許可を取らなければ何も出來ないだなんてウェブも不自由になつたのだなあと思ふ。會社ではないんだから……。

「無斷リンク禁止」は、法や権利の問題ではない、人の信義や仁義の問題なんだ、と言ふ人もゐる。しかしその人が、リンクを張つた人の事を全然信用してゐないのは何なのだらうと思ふ。人を信用できない癖に人の信用が大事とか言ふ。をかしい。

「無斷リンク禁止」説の唱道者や支持者は「他人を自分に屈服させたい」「他人を支配したい」と思つてゐるから言ふのである。他人の自由を否定し自分の自由だけを守りたいと云ふ考へ方である。ところがさう云ふ身勝手な人が、「人と人との協調」を主張し、それによつて「自由な社會」を守れると本氣で信じてゐる。訣がわからない。