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野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
言葉のすり替へについて ( 事件 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ
2007/10/5(金) 午後 9:07
公開
2019-03-15

言葉のすり替へについて

例の時津風親方の問題。現時點では刑事事件として立件されてすらもゐない状況なので、それ自體として何かを言ふ事は避ける。

スキャンダルが「起きる」と、それだけの理由で關係者・當事者の人格を云々し、誹謗して、好い氣になる人がゐる。容疑者にも人權はあるのだし、そもそもまだ時津風親方は容疑者ですらないのであつて、そこで人を貶めるやうな事を言つて良いとは言へない。日本では、スキャンダルをでつち上げる人がゐて、しかもそのでつち上げた當人が「スキャンダルになつたのだから」と言つて偉さうに説教すると云ふ非道い事例が多數ある。良くない事だ。

スキャンダル好きと云ふのはどんな人間にもある屬性だからスキャンダルがこの世から無くなる事はないにしても、しかし、だからと言つて積極的にスキャンダルを利用し、好い氣になつて他人を叩く行爲は――少くとも「人權派」の人々は避けるべきだらう。閑話休題。


苛めにしても嫌がらせにしても、人間は「これは苛めである」「嫌がらせである」と認識し、「これは惡い事で、すまじき事である」と自覺して「やる」のを好まない。當り前の話で、だから自己正當化は誰でも「する」のだし、それは必要な事だが――しかしそれで自己欺瞞に陷るやうでは困る。

時津風部屋に限らず、相撲の世界では、「かわいがり」(敢て略かなで書く)と云ふ事をやるのださうで、それが今囘大きく採上げられて知られるやうになつたのだが――「しごき」を「かわいがり」と言換へるのは、果して「良い」事なのか。勿論「良くない」と云ふ結論が俺の中にはあるのだが、世間の人は何う御思ひか。

喜六郎が、自分に都合の惡い批判を中傷と言換へるのは良くない事だ、と言つてゐて、成程その通りだと思つた。勿論、中傷を批判と言張つて相手に見せ附け嫌がらせをするのも良くない事で(その事に喜六郎が全く言及しないでゐるのには意味がある)、批判は批判、中傷は中傷とはつきり分かつ必要がある。他人であれ自分であれ、欺瞞するものであるならば、言換へは良くない事である。「かわいがり」と云ふ言換へも、これも欺瞞であつて、對外的に良いイメージの言葉を使ふのみならず、自分自身をも欺して、自分に「これは良い事をやつてゐるのだ」と思ひ込ませて、それで相手に非道い事をやるのだから――いやいや、しごきなり特訓なりならばそれはまだ良いのだが、それがエスカレートして行けば。人死にが出れば流石にこの手の事は問題と看做される訣で――しかし、問題は相撲部屋だの挌鬪技だの、或は「人が集まるところ」だのの問題ではない。

殊に日本人の間でこの種の「言換へ」は一般的であつて、それゆゑ――喜六郎なんかを見れば判るやうに――他人の言つてゐる事の裏をすぐに見る傾向が日本人にはある。日本人は言葉に對して疑心暗鬼になつてゐるのであり、それゆゑすぐに他人の言つてゐる事を問答無用で否定して自分に都合良く解釋し、ぶつ叩いて喜ぶ喜六郎みたいな人間が出てくる訣だが、これは大變困つた事だ。日本では、言葉が文字通りの意味で使はれたり裏の意味で使はれたりする。この使ひ分け、「如何にも日本人らしい」のだが、しかしそこに基準がないから、御話にならない。日本で論爭が論爭にならないのは、常に言葉が曖昧に使はれ、曖昧に解釋されるからで、それで俺は文字通りの意味で物を言ふやうにしてゐるのだが、相手がすぐ裏の意味で物を言ふ人間だと、その時點で話が成立しなくなる。喜六郎が俺とまともに話を出來ないのは、あれが言葉を文字通りの意味で裏の意味で使つたり、「融通無礙」である爲だ。そして、彼はそれを「良い事だ」と心から信じてゐる。


言葉の欺瞞的な言換へを、「良い事だ」と心から信じてゐる日本人は極めて多い。それは話が通じなくなるから迷惑な事だが、一方で大變危險な事だと言つて良い。「かわいがり」と云ふ呼び方をする行爲を、相撲取りが心から信じてゐるのは、相撲取りが日本人だから「仕方がない」――だが、その爲に、非道い行爲であつても「かわいがり」と呼べば最早それは非道い行爲ではなく「良い行爲」になる。

實を言ふと、多くの日本人が、言葉の言換へを信じてゐると云ふ訣ではない。「言葉を言換へる事によつて行爲なり何なりの意味は完全に變化するのである」――日本人は屡々さう信じてゐるのである。言葉の言換へで一番の問題はこれである。

喜六郎は、自分のしてゐる中傷を「批判」と言張る事で、それだけで即座に「良い事」に轉化すると心から信じてゐる。だから「お前のしてゐる事は批判ではない、中傷だ」と言はれても理解する事が出來ない。理を盡して説明されても解らない。「かわいがり」と言つた時津風親方は、指導なり何なりが「行き過ぎた」とは思つても、それ自體が「惡い行爲だつた」と認識する事が出來ない。日本人は、言葉に欺されやすい。他人を欺くにしても、自分で自分を欺くにしても。


「それが餘りにも適切ならば、譬喩は證明になるのですよ」と本氣で言つたYahoo!掲示板での粘着がゐた。(俺に粘着した某社社員である。Yahoo!は彼の粘着行爲を「匿名に據るものである」からと言つて全面的に支持した。閑話休題)「言靈」信仰は、現代でも惡い意味で生きてゐると言へる。これは大變困つた事だ。そして、日本人にはこの事が「困つた事」なのだと認識出來ない人が、少からず存在する。