右翼發言に左翼が群がるのは炎上?
――これらの發言にそれぞれ大量のコメントが附いた時、どちらも炎上と云ふ事になるだらうか?
批判と誹謗が餘りにも不用意に混同されてゐる。
批判が集中する發言は、發言者に問題がある。非難が集中する場合は、問題のある人間が何らかの惡意を持つて集つてゐる場合がある。
「炎上なる現象」を全體として見て「問題がある」「ない」と論評してもナンセンスだ。個別の事例についてなら、問題の有る無しを言ふ事が出來る。
――傍から見て第三者が判斷するしかない。
「論理的でない、妥当でない批判」と云ふものが成立つか。批判は常に論理的であり妥當であるべきである。非論理的で不當なのは非難と言つて區別すべきだ。
自由に批判が出來ない社會は息苦しい。不當な非難や人格攻撃によつて自由な批判が封殺される社會は大變息苦しい。
批判が封じ込められて「自由に物を言へる社會」を多くの人が望んでゐる。しかしそこは自由に物を言へる社會ではない。
「批判はすべきでない」「炎上は防ぐべきだ」と云ふのを無條件に主張するのは寧ろ危險だ。
「そもそも批判されるやうな惡い事をしない」「オフラインで惡い事をしてもオンラインでは默つてゐる」と云ふのは當り前過ぎる事だ。
「惡い事をした人が叩かれる」「惡い事をしたと公言して炎上する」。當り前。
「惡い事をするのは惡いに決つてゐるし、惡い事をしたと自慢するのも惡いに決つてゐる。惡い事をしたり言つたりした人を叩くのも惡い」――こんな「喧嘩兩成敗理論」が今のネットで横行してゐる。これほど安直で無責任な主張はない。